戦国時代の大名は特色のある馬印を掲げています。たとえば、越後の龍こと上杉謙信は「毘」と書かれていた旗や「懸り乱れ龍」の旗を掲げていました。また上杉謙信のライバル・武田信玄は「風林火山」の四文字を大きく書いた旗を掲げています。
さてこの武田信玄の馬印・「風林火山」は何に由来しているのか。この謎について迫ってみたいと思います。
相棒「風林火山」の旗を掲げる武田信玄
武田信玄は上杉謙信と激闘を繰り広げた川中島の戦いや北条・今川連合軍と戦った薩埵峠の戦いなど多くの戦を繰り広げています。これらの戦はすべて武田信玄が自ら出陣し、相棒と共に戦場を駆け巡っていました。武田信玄の相棒は「風林火山」の旗です。
武田信玄はこの相棒の旗を常に掲げて戦を行っていましたが、この「風林火山」の四文字にはどのような意味があるのでしょうか。
「風林火山」は戦の心構えに由来
武田信玄は「風林火山」の四文字それぞれに意味を持っていました。まず「風」には「はやきこと風の如し」との意味が込められています。これは戦場においてダラダラと行動するのではなく、風のように素早く行動すべしという意味です。
次に「林」には「静なること林の如し」の意味が込められています。上記は「敵と対戦する際、陣形は林のように静かで的に見破られないようにするべき」と言う意味合いがあります。
また「火」ですが「侵略すること火の如し」という意味です。これは「敵を攻撃する際には火のように激しく攻撃するべし」と言う意味です。
最後の「山」は「動かざること山の如し」です。これには「敵の奇策などに惑わされないように山のように不動であるべき」との意味があります。
このように「風」「林」「火」「山」それぞれに意味があるのですが、この四文字熟語を考えたのは武田信玄じゃありません。
ではいったい誰が考えたのでしょうか。
「風林火山」は「孫子の兵法書」を書いた孫武から引用
「風林火山」の四文字熟語は古代中国の「孫子の兵法書」に書かれている言葉です。そしてこの「孫子の兵法書」を考えた孫武が「風林火山」を最初に作った人物でした。孫武は「孫子の兵法書」で「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」と記載している事から、武田信玄がこの文章を引用して、「風林火山」の旗を作ったとされています。
ついでに武田信玄は「風林火山」の四文字を「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な快川紹喜に命じて、旗に書かせたそうです。しかしいつ頃この「風林火山」の旗が使われたのか。
また武田信玄はどうしてこの「風林火山」の四文字を旗にしたのか。これらの理由はいまだ謎のままで、今後の研究で回目されることを祈るばかりです。
ここからはレンの推測ですが、もしかしたら武田信玄は上記の文を「孫子の兵法書」で読み、「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」が気に入り、「風林火山」の四文字を切り取って、旗に書いたのかもしれませんね。
戦国史ライター黒田レンの独り言
武田信玄はもしかしたら「孫子の兵法書」の「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」を知っている事から、古代中国史が好きだったのかもしれません。もし武田信玄が古代中国史好きだったとしたら、呉起が書いた「呉子」や曹操が書いた「魏武注孫子」、キングダムにも登場した韓非が書いた「韓非子」などの書物を読んで、古代中国で行われていた戦いを勉強していたのかもしれません。
また武田信玄は自分の戦いに応用できないかなと古代中国史の書物を読んで、研究していたかもしれません。こうして考えると古代中国史と日本の戦国時代にも書物を通じて共通点があったと考えられるのではないでしょうか。
■参考文献 新人物文庫 武田信玄謎解き散歩など
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