織田信長と武田信玄が戦争になったのは徳川家康のせいだった!

2019年1月14日


 

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真田丸 武田信玄

 

織田信長(おだのぶなが)武田信玄(たけだしんげん)と言えば、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵、宿命のライバルという印象を持ちます。信玄上洛を信長が非常に恐れていたという逸話も映画やドラマなどでよく語られます。

 

長篠(ながしの)の戦いや武田勝頼(たけだかつより)を滅ぼす所まで行ったというのも大きな理由でしょう。しかし、実際に史実を紐解いてみますと、実は信玄と信長は最後の最期まで良好な関係を維持していた事実が分かってきます。織田信長を唯一の頼りとしていた信玄、信玄の為に上杉謙信と信玄の和睦を続けた信長、、そんな良好な関係の二人が最終的に決裂したのは、実は徳川家康(とくがわいえやす)のせいでした。

 

※こちらの記事は、河出書房新社刊 織田信長不器用すぎた天下人を参考にライターの主観を交えて執筆しています。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元亀三年(1572年)まで同盟強化を考えていた両者

 

武田信玄が最終的に織田信長と手切れして、信長包囲網に加わったのは、元亀(げんき)三年(1572年)の10月の事でした。ところが、同年の正月までは、両家は信長の嫡子織田信忠(おだのぶただ)と信玄の娘松姫の縁談を進めようとしていた事が土御門文書(つちみかどもんじょ)から明らかになっています。

 

信忠と松姫の縁談は、永禄十年から十一年(1566年から67年)にかけて縁組が成立しその後、色々あり中々実際の輿入れまで話が進まず頓挫とんざ)したものですが、遅れているなりにも何とか進めようとしている点には、織田家と武田家の関係が決して悪いモノではなかった点がうかがえます。では、どうして、武田家と織田家が最終的に反目する事になったのでしょう。

 

それは、武田信玄と徳川家康の関係が最悪だったからです。

 

 

 



嫡男義信との対立で四面楚歌になる信玄

 

 

元々、関東では天文年間以来、(そう)(こう)駿(しゅん)今川義元(いまがわよしもと)北条氏康(ほうじょううじやす)、武田信玄の三国同盟がありました。三家は縁組を続けて血縁で繋がり、盤石(ばんじゃく)な協調体制を築きます。それがおかしくなってきたのは、今川家の当主義元が桶狭間(おけはざま)で信長に討たれてからです。

 

信玄はこれを領土拡張の勝機と見て、今川領土侵攻を企てました。ところが、それに対して、嫡男の武田義信(たけだよしのぶ)が猛反対します。理由は義信の正室は今川家から輿入れした女性だったからです。父子の確執は修復不可能になり、とうとう信玄は義信を自害させ妻については、今川家に送り返してしまいました。これに対し今川氏真(いまがわうじざね)が激怒、上杉謙信(うえすぎけんしん)と同盟を模索し出したのです。

 

上杉は何度も川中島で戦った信玄のライバルですので、怒った信玄はこれを口実に駿河に攻め込んでいます。さて、この時、三河の徳川家康は信玄と歩調を合わせ遠江に攻め込みました。ここまでは、武田と徳川の歩調は揃っていた事になります。

 

 

織田信長スペシャル

 

 

 

信玄を警戒し今川・北条と手を組む家康

 

 

しかし、同じころ、徳川と武田でトラブルが発生します。武田に与している秋山虎繁(あきやまとらしげ)信濃下伊那衆(しなのしもいなしゅう)が突出した行動をして遠江(とおとうみ)を窺う素振りをみせ、それに怒った家康が信玄に抗議したのです。

 

信玄は、これに対し起請文を出して二度とこういう事はしないと詫びます。甲斐の虎と恐れられた信玄にしては、ちょっと気弱ですよね?それもその筈、この頃の信玄は、今川家に同情して駿府に兵を出した北条氏康にも背後を脅かされていました。

 

つまり、かつての三国同盟の全ての国+上杉謙信が敵に回ったのです。これで徳川まで敵に回ればいかに武田といえどもオシマイですから、信玄が家康の機嫌を取るのは当然でした。ところが三河の古狸はこの頃から健在、信玄の気配りをよそに今川氏との関係修復さらには、上杉謙信にも接近していたのです。信玄の焦燥と不信感は増大しました。

 

 

信玄は織田信長に泣きつく

 

 

武田信玄は、この危機を縁戚関係の織田信長に訴えます。徳川が盟約に背いて、今川や北条と組んでウチを襲おうとしているので、何とか説得して欲しいというのです。

 

永禄十二年(1568年)三月二十三日付けで出した武田家の外交官として織田家を担当している市川十郎右衛門尉(いちかわじゅうろうえもんい)への手紙には、その切実ぶりが現れています。

 

 

「信玄の事は、只今信長を(たの)むのほか、又味方なく候」

武家事紀武一三七九号

※織田信長 不器用すぎた天下人 単行本 /50頁/ 2017/5/1初版/金子拓 (著)河出書房新社

 

ここには、信長に見捨てられたら俺はお仕舞(しま)いだ、そのつもりで織田家と交渉してくれと縋るようにする信玄の心情が現れています。そして、市川十郎右衛門には、家康が今川氏真と和睦しようとしているが、それについて、信長がどう思うか聞いてこいと命じていました。ところが、このような信玄の不信の払拭(ふっしょく)に信長が動いたような様子はないのです。

 

 

謙信と信玄を和睦させる 明後日の方向に情熱を注ぐ信長

上杉謙信

 

この間、信長が一切何もしていないなら、ただの鈍感な人物で終りですが、信長は信長で和睦に努めていました。しかしそれは、信玄と家康の和睦ではなく、信玄と謙信の間の和睦でした。ここでは、将軍足利義昭(あしかがよしあき)が主導し、信長も協調していました。

 

信長は謙信とも友好関係があり、そのパイプを使っての行動だったのです。

 

「いやいやいや!!ちょっと待って謙信との和睦もそりゃあ大事ですけどお宅の同盟者の家康が、今川と和睦するわ、北条と組むは、挙句の果てには、上杉と組んで、武田と織田の婚姻についても、破談にするように働きかけていますよ!なんとかして下さい、あなた家康と盟友なんでしょ?」

 

信玄は何度も何度も書状を送り、家康を何とかするように依頼し、あいつ(家康)が色々、私の悪口を吹き込むでしょうが、それに耳を貸さないようにどうかよろしくお願いしますと低姿勢で頼み込みますが、驚くべきことに、信長はこの願いをスルーし続けるのです。

 

 

 

ブチ切れ信玄 もういいよ!織田も徳川も敵じゃい

 

 

年下の家康に起請文まで書いて平和を維持しようとし、信長には再三にわたり家康の違約を報告し続けた信玄は、とうとうブチ切れました。元亀三年(1573年)10月、武田信玄は挙兵し、足利義昭が主導する信長包囲網に参加、徳川と織田を敵にする事を宣言したのです。

 

ところが、この期に及んでも信長は信玄が裏切る事が衝撃だったようです。以下のような(ののし)りの書状を上杉謙信に出しているのです。

 

 

謙信と信玄の和睦について、将軍の仲裁により去る秋から使者を派遣して

(動いて)いたところ、信玄のやりくちは前代未聞の無道である。

彼は侍の義理も知らず、都鄙(とひ)の物笑いになることすら顧みないことをしでかした。以下略

歴代古案上一一三一号

※織田信長 不器用すぎた天下人 単行本 /60頁と61頁より/ 2017/5/1初版/金子拓 (著)河出書房新社

 

 

こうして、散々に信玄を罵倒した上で、こんな態度を取られたからには、信玄とは義絶し、未来永劫手は組まないと宣言したのです。なんだかもう唖然です。信玄からすれば、家康の違約は放置しておいて、何をぬけぬけとと思うでしょう。

 

ですが、信長の怒りっぷりは自分の非を覆い隠すというより、信じられない不義理をした信玄は許せないという怒りに満ちています。これでは、信玄が信長を裏切るのも無理はないと思います。だって、最初から最期まで話が通じていないんですもの(泣)

 

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

武田信玄が織田との同盟を破棄した時、信玄は三年間の鬱憤を晴らしたい、そのように書状に書いているようです。信長の怒りも相当なものですが、信玄の怒りも我慢できないものでした。

 

上杉と武田の和睦は勧めながら、徳川の武田に対する不義理はスルーしてしまうこのよく分からない外交感覚こそ、ずーっと織田には好意を持ち続け、頼みにもしていた信玄を敵に寝返らせた最大の原因だったのです。

 

参考:織田信長 不器用すぎた天下人 単行本 // 2017/5/1初版/金子拓 (著)河出書房新社

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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