夷陵の戦いで敗北し、白帝城に籠ってからの劉備玄徳。意気消沈のあまり病床に伏し、みるみる衰弱し、孔明を呼び寄せて後事を託した上でついには病没してしまいます。
『三国志演義』では、その最期はまさに「主人公交代」というにふさわしい感動的な場面として描かれています。
ですが前後の経緯を冷静に考えると、関羽を失ってからの逆上ぶりと、それが招いた無理な行軍がもたらした夷陵での大敗は、すべて劉備自身の責任ともいえるもの。そのストレスのために病気になったというのは、何とも英雄らしくない最期、とみる人もいるのではないでしょうか。
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晩年の劉備の失策続きを弁護する試み!誰にもいえない悩みがあった?
ですが、よくよく考えてみましょう。
みんな「夷陵の大敗が原因で劉備は病気になった」と言いますが、実際には病気の原因というのは複合的なものです。自分が病気になった時のことを思い出してみてください、「あの日のあの時の出来事が原因だった」と明確に言い切れるのは、食あたりくらいのものではないでしょうか?
劉備が夷陵の大敗による意気消沈で病気になった、というのも、あくまでも後年の歴史作家たちの解釈にすぎません。そして『三国志』のような古代の物語の魅力は、史実があいまいであるがゆえに、ひとつの出来事についても様々な解釈が並置できるということでしょう。
とりわけ、自分の好きなキャラクターにとって有利な解釈を主張することができる自由があることでしょう。というわけで、劉備玄徳の最期についても、ここであえて彼の弁護士になったつもりで、英雄の最期にふさわしい解釈をとってみようと思います。
すなわち!
大胆な仮説:劉備玄徳はかなり前からとっくに病気だった!
根拠としては、夷陵の戦いよりも前に、劉備玄徳が既に60代と高齢であり、当時の常識からいえばかなり高齢であった、ということがあげられます。まして若いころは流浪の旅の連続、体はかなり蝕まれていたことでしょう。
その劉備玄徳が、関羽が亡くなった知らせを受けた頃には、「誰にも言わなかったけれどもすでに体が不調だった」という解釈も無理ではありません。
何よりも、劉備が「実はかなり早い段階で病気だった」と解釈すると、関羽の死を聞いて逆上することも、彼には珍しい強引な出兵を行うことも、すべて「本人も死期を悟っており、自分がリーダーとして部下を引っ張れるのはこれが最後のチャンスと悲壮な覚悟をしていた為だった」ということになります。
英雄としての彼の矜持が守られるのです。
劉備の発病を早い段階に設定すると、「人が変わったようになった」理由もつく
三国志演義の記述だけを見ると、晩年の劉備は「まるで人が変わったようになった」という言い方ばかりが目立ちます。
その理由として「関羽が死んだことによるショック」とか「皇帝になったことによるおごり」とかいった解釈が出てきてしまうのですが、皇帝に即位したあたりの時点で、すでに「ひどい下痢や恒常的な不調感に悩まされていた」と解釈すると、どうでしょう?
もう自分には時間がない。それでいて、残念ながら自分の子供には才能がないことを知っている。
そこに関羽と張飛の死というニュースを聞き、「このままでは将軍クラスにも人材がいなくなる」と思った劉備は、病気を隠したまま、一世一代、最後の賭けとして、行軍に出発したのではないでしょうか。
そうみると、劉備最後の戦いは、「関羽を殺されたことに逆上しての老人の暴走」ではなく、「自分の寿命があと一年程度と自分でわかっていた老英雄が、誰にもその秘密を打ち明けずに試みた、孤独な賭け」だったと解釈できるわけです。受動的で、感情的に見えた晩年の劉備の言動が、一気に「英雄らしい」悲壮感を伴ったものに見えてくるのではないでしょうか?
三国ライターYASHIROの独り言:病気のせいにするのはアメリカの強引な弁護士みたいですが、たしかに便利!
この解釈は、いかがでしょうか?私は十代の頃に、一度この解釈を思いついて以降、もはやこの見方でしか劉備を見られなくなってしまったほど、この見方が身についてしまいました。
もっとも、病気と診断された被告人の診断書を武器に、「ということは、きっと事件が起こる前から、彼はすでに病気だったのです!」と言い張るのは、アメリカのドラマに出てくる悪役弁護士の強引な手法みたいですが、確かに便利なことには違いない!
何よりも、このような自由な解釈ができることが、古代史の物語を読む楽しみともいえるわけですので、自分の好きなキャラクターを弁護してしまう仮説を立てて物語を読み直すという態度は、『三国志』の読み方としては、悪いことではないでしょう。
というわけで、この「劉備はとっくに病気だった」説、いかがでしょうか?
採用いただける劉備びいきの方、一人でも多く増えていただければと。歓迎いたします!
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