ここ3年間では新型コロナウイルスがパンデミックで話題になりましたが、島国の日本は大陸から持ち込まれた感染症に潰滅的な打撃を被った事が多くありました。今回は日本列島を震撼させた感染症を4つ紹介します。
天然痘
天然痘は元々牛の病気ですが、人が家畜である牛と定住生活をするようになり、牛から人へ転移し猛威を振るうようになりました。日本には飛鳥時代頃から渡来人とともに上陸し、奈良時代には当時の人口の1/3とも1/4とも言われる人が天然痘で亡くなっています。この天然痘で政権を牛耳った藤原四兄弟が全滅、一時的に藤原氏の勢力が衰退しています。
天然痘の致死率は50%~25%と高いですが、一度感染すると体内に免疫が出来て、天然痘に感染しなくなります。しかし、天然痘の免疫は親から子へ引き継がれないので、しばらく流行がないと免疫を持つ人がいなくなり、再び大量の死者が出ました。18世紀の末に、牛が感染する牛痘からワクチンが造られ、現在では人類は根絶した唯一の感染症と呼ばれています。
インフルエンザ
インフルエンザに類似した感染症は、紀元前の昔から存在していたと言われています。インフルエンザという言葉が生まれたのは、16世紀中頃のイギリスでラテン語で「星の影響」という意味だそうです。インフルエンザは冬季に流行し、春先に収まるというパターンを繰り返す事から当時の人はインフルエンザを星の運行の影響と見ていたようです。
日本には、平安時代の862年頃、文献に登場し、咳逆(シハブキ)という言葉で記録され京都から畿内で1月に大流行し、多くの患者が出て死者が甚だ多いと記録されています。ただ、咳逆という言葉は定着せず、江戸時代になると、流行し始めた土地や地域や個人名から、○○風と呼ばれるようになります。ちょうど参勤交代は冬の時期でインフルエンザの流行時期なので、大名行列の来た場所から津軽風、薩摩風、琉球風、幕末にはアメリカ風などと呼ばれ大流行しています。
梅毒
梅毒はその起源については明らかになっていません。説には大きく分けて、コロンブスが新大陸から持ち帰った説と、コロンブス以前から欧州にはあったが別の病気と混同され、目立たなかったとする説があります。ただ梅毒が記録に出現し始めるのは15世紀の末で、グーテンベルクの活版印刷が普及した頃であり、コロンブスの新大陸発見と同時期である事から、この頃から梅毒はハッキリと性感染症としてヨーロッパ人に認識されました。
日本に梅毒が入り込んだのも大航海時代で、1512年に京都で流行し「唐瘡」または「琉球瘡」と呼ばれました。当時は戦国時代であり、刹那的な風潮に加え、性に開放的だった日本の風土も相まって感染が爆発。著名な戦国武将にも梅毒が疑われる症状が原因で死んだ人もいます。ただ、梅毒は感染症の中でも進行が遅く末期症状に至るまで10年ほどもかかるため、実際には梅毒に感染していても別の病気で死んだ戦国武将も多くいるようです。
徳川家康のように梅毒を警戒し、遊女を買う事を部下に禁じた戦国大名もいますが、助平は止められず、江戸時代に入っても梅毒は流行し続け、解体新書で有名な杉田玄白は1000人の患者のうち、700~800人は梅毒患者であると記録していました。
コレラ
コレラはガンジス川下流のインドのベンガル地方、及びバングラデシュにかけての地方が発祥地と考えられています。長い間、限定的な風土病でしたがイギリスのインド支配が強まると、七つの海を支配したイギリス海軍と共に世界に広がり、1817年にカルカッタで発生したコレラの大流行は、アジア全域とアフリカに到達して1823年まで継続しました。
日本には文政年間に対馬、下関を経由して京都まで広がり、3日コロリと言われました。次の流行は安政五ヶ国条約が結ばれた1858年で前後3年間に渡って継続し、江戸だけで28万人が死ぬ猛威を振るいました。コレラは嘔吐と下痢が止まらず、水を飲ませないと3日ほどで脱水症状を起こし死んでしまう感染症ですが、充分に水分を与える事が出来えば、80%の命が助かるそうです。
しかし、コレラの大流行が西洋との不平等条約の時期と重なっている事から、コレラに対して積極的な対策を講じなかった幕府への庶民の不満が強まり、それが尊王攘夷運動に転化していき、結果的に倒幕運動に繋がり、幕府を倒したとする説もあります。
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