織田信長といえば種子島銃(鉄砲)を使った戦い方の天才でした。
織田信長が種子島銃を駆使して敵軍を壊滅的な損害を与えた戦いといえば、長篠の戦いが有名だと思いますが、織田信長はいつ頃から種子島銃を戦で使うようになったのでしょうか。
今回は織田信長が種子島銃をいつの戦で初めて使ったのか紹介したいと思います。
種子島銃の出現
織田信長が最初に種子島銃を使った戦を紹介する前にいつごろ日本に種子島銃が伝来したのか紹介したいと思います。
日本へ初めて種子島銃が伝来されたのは1543年の8月頃、戦国時代の薩摩(現在の鹿児島)の種子島に言葉の通じない異国の人が船で流れ着いたことがきっかけと言われています。種子島を領有していた種子島時尭は異国の人物が持っていた火薬を使って弾を放つ不思議な道具を高額な金額で買い付けた事で、日本へ鉄砲が伝わることになります。
種子島時暁が鉄砲を入手した時、織田信長は11歳の青年でした。そしてこの8年後に織田信長は鉄砲を魅せられることになるのです。
鉄砲の扱いを師匠に教えてもらう
織田信長は19歳頃、橋本一巴から種子島銃(鉄砲)の扱い方を教えてもらい、鉄砲の扱いに習熟していきます。
その後織田信長は師匠に種子島銃の扱い方を教わりマスターした後、斎藤道三との会見で、彼をびっくりさせるために鉄砲を用います。織田信長はどのようにして鉄砲を用いたのでしょうか。
それはまだ新兵器である鉄砲と弓の混合部隊を会見場所へ連れてきたことです。鉄砲と弓部隊の比率は不明ですが、織田信長が種子島銃の数をそれなりに持っていたと思われます。こうして織田信長は新兵器である種子島銃を斎藤道三へ見せびらかした後、実践へ投入することにします。
村木城攻めで初投入
織田信長は尾張を統一するため、尾張国内にある村木城を攻略するべく出陣。
この時織田信長は師匠・橋本一巴から教えてもらった鉄砲術を駆使して、村木城の弓を放つことができる狭間を狙って自ら鉄砲を撃って制圧。
こうして弓矢を放つことができる狭間を鉄砲で占拠してしまうことで、村木城の攻撃力を低下させ、村木城は簡単に陥落してしまうのでした。こうして織田信長は種子島銃を初めて戦へ投入し、種子島銃の有用性を織田家の家臣達へ見せつけるのでした。
新しい攻城戦のやり方を編み出す
織田信長は尾張の織田信賢の居城・岩倉城を攻撃した際には、種子島銃(鉄砲)を使った新しい攻城戦の方法を編み出すことに成功します。織田信長の種子島銃を使った新しい攻城戦のやり方とはどのような方法だったのでしょうか。
織田信長は編み出した新しい攻城戦のやり方は、まず岩倉城の四方を鹿垣で包囲しつつ長期戦の構えを見せつけます。その後、織田信長は種子島銃で岩倉城を砲撃しつつ火矢を城内へ向かって放つ攻撃をします。
織田信賢は種子島銃の激しい音と火矢による火災に進退窮まってしまい、織田信長へ降伏。こうして織田信長は岩倉城を難なく奪うことに成功するのでした。
この織田信長の攻城戦は後に戦国時代の各大名がマネっこして行くことになることを考えると、種子島銃を使った新しい攻城戦を考え出した先駆者と言えるのではないのでしょうか。
戦国史ライター黒田レンの独り言
織田信長は九州の種子島に鉄砲が伝来されてからたった8年後には自らが鉄砲を使えるように習熟し、10年後には戦場へ種子島銃を投入して、新しい攻城戦のやり方を自ら編み出してしまうほど種子島銃に魅せられていました。
織田信長の新しい物好きは種子島銃でも発揮されることになります。そして日本へ伝来した種子島銃は今まで日本で行われていた戦い方を180度大変化させた新兵器と言えるのではないのでしょうか。
■参考文献 信長公記を読む (歴史と古典)など
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