中国に仏教が訪れたのは漢代(前202年~後220年)と言われています。
しかし政府公認レベルの宗教ではありません。政府公認の宗教になるのは、五胡十六国時代(304年~439年)や南北朝時代(439年~589年)の外国僧が、皇帝の配下となってからです。
今回は宋(960年~1279年)の政治と仏教について若干の解説を致します。
北宋統一以前の仏教
北宋(960年~1127年)統一以前、中国は五代十国時代(907年~960年)という乱世でした。北宋の前の王朝は後周(951年~960年)でした。後周の第2代皇帝世宗は仏教政策を行いました。
世宗は中国版「織田信長」と言われている人物です。だからと言って、信長と同じように、比叡山延暦寺焼き討ちと同じことをやったわけではありません。
世宗は大仏を破壊したのです。
「信長と似たようなものだろう」と思うかもしれませんが、これには意味があります。
当時は戦乱で銅が不足していました。銅が不足していたら銅銭が鋳造できませんし、兵士に給料が払えません。世宗はそのために仏像を破壊したのです。部下は「罰が当たります」と止めましたが、世宗は飄々とした態度でした。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「銅でつくったお釈迦様に何の価値があるのだ?人々のために壊すのだったら、お釈迦様もあの世で喜ぶでしょう。はい論破!」
イヤミ課長と同じくらいの力で部下を説き伏せると仏像を片っ端から破壊しました。世宗のおかげで銅銭の供給率が上がり、北宋の銅銭政策に引き継がれたと言われています。
ただし、世宗は39歳の若さで亡くなりました。仏教界では仏像の祟りと言われています。
日本がうらやましい
北宋は第2代皇帝太宗の時代に天下統一に成功しました。永観元年(983年)、日本から奝然という僧侶が北宋に来ました。奝然は仏教の勉強のために東大寺から来たのです。
早速、太宗に面会した奝然は日本についての話をしました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「外国の王室には姓があります。しかし、日本の皇室はそのようなものはありません。王(天皇)そのものが姓でございます。それがずっと絶えることなく続いています・・・・・・」
話を聞いた太宗は感心しました。
「日本は島国なのに、王(天皇)がそんなに続いているなんてすごいなあ・・・・・・中国は文化を誇るのに国内は分裂するし、大臣の家は続かないことが多い。私の徳は古の聖人に及ばないが、国が繁栄するように頑張ろう!」
結構、日本を褒めてます。現代で例えるなら、日本の技術力や接客力に感服する外国人のレベルですね。この頃からあったのですね(笑)奝然は約4年間、北宋で勉強して帰国しました。彼が北宋から持って帰った大蔵経の写本は石山寺・法隆寺・高山寺に残っています。
勉強家・王安石
王安石は、北宋第6代皇帝神宗の時の宰相です。従来の法律から新しい法律に変えた人物として知られています。王安石は若い時から読書家として知られており、書籍は何でも目に通していました。
もちろん仏教系(特に禅宗)の書籍を何冊も読んでいます。王安石は仏教系の書籍の中に、政治や官僚としての心構えが書かれていることに気付きました。感銘を受けた王安石は早速、科挙(官吏登用試験)に仏教に関する問題を提出することにしました。
しかし、これは王安石の支持者である皇帝の神宗ですら疑問を投げかけました。これに対して王安石は、仏教と儒教の書籍も合致するところがあると必死で説得しました。
その結果神宗も納得して、科挙試験に仏教の問題が入れられました。
宋代史ライター 晃の独り言
今回は宋代の仏教について紹介しました。宋代は唐代(618年~907年)ほど仏教ブームではなかったので、日本の僧侶の留学もほとんど無かったようです。
しかし中には奝然のように、真面目に取り組む人もいました。
きっと周囲からは、時代遅れな奴だと思われたでしょう。だけど、その時代遅れな行いが後世に大切な史料を残してくれたのです。
※参考文献
・乱世の皇帝―“後周”の世宗とその時代 (1979年)
・王安石―革新の先覚者 (1975年)
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