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[趙匡胤の真実]豊臣秀吉のような皇帝!民衆に愛された理由

2023年10月3日


鳴かぬなら殺してしまえホトトギス(織田信長)

 

日本の戦国時代の名将と言えば織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)徳川家康(とくがわいえやす)の3人が挙げられます。かつて、宮崎市定(みやざき いちさだ)という学者は、3人を中国人で例えるのなら、信長は後周の世宗(せいそう)・秀吉は宋の太祖(たいそ)・家康は太宗(たいそう)と言っていました。

 

世宗は本名を柴栄(さいえい)と言います。五代十国時代という殺伐とした乱世の中で、数少ない名君と言われた人物ですが若くして世を去りました。太祖は本名を趙匡胤(ちょうきょういん)と言います。世宗に仕えて近衛兵の隊長として出世して、世宗の死後は部下に擁立されて皇帝になり宋(北宋)を建国しました。

 

太宗は趙匡胤の弟であり、兄の死後に皇帝になり、天下統一を成し遂げました。3人は、まさに中国版信長・秀吉・家康です。今回は中国版秀吉と言われている趙匡胤について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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乱世に生まれた趙匡胤

趙匡胤は北宋の初代皇帝

 

趙匡胤は後唐(こうとう)の天成2年(927年)に洛陽で誕生しました。

父は趙弘(ちょうこういん)、母は杜氏(とし)と言います。

 

父の趙弘殷は後唐に仕えている武人です。

後唐とは、唐が天祐4年(907年)に後梁(こうりょう)に滅亡させられた後に、唐の後継王朝を自称する李氏が建国した王朝です。

 

後唐は同光1年(923年)に後梁を滅ぼすことに成功しました。

ところが、後唐では間もなくして、建国者の荘宗(しょうそう)に対して部下の不満が爆発します。

部下は荘宗を殺害して、新しい皇帝を据えてしまいます。

五代十国時代は部下が勝手に皇帝を殺して、交代させることが日常茶飯事でした。

 

 

 

就職先を探しに旅に出る趙匡胤

 

趙匡胤は子どもの時から、わんぱくな性格であり、近所のガキ大将的存在でした。

それでも人並みに塾には通っており、先生に対する敬意は払っていました。

後に皇帝になった時に、かつての家庭教師には莫大なお礼を返しています。

 

さて、成長した趙匡胤は旅に出ました。目的は就職先を探しに行くことです。

王朝も後唐→後晋(こうしん)→後漢(こうかん)とかなりの速度で交代していました。

趙匡胤はまず、王彦超(おうげんちょう)という武人のところに行きました。

だが、「今回はご縁が無かった云々」の決まり文句を告げられ、お金だけ持たされました。

 

趙匡胤は皇帝になった後に、王彦超に尋ねました。

「なんで、あの時雇ってくれなかったのですか?」

 

すると王彦超は、「もしあの時、依頼を受けていたら、今日の陛下はいなかったと思いますよ」と答え

一本取られたと思ったのか趙匡胤は大笑いしたそうです。

さて、王彦超のところを門前払いされた趙匡胤は次もダメだったので、後漢の郭威(かくい)のところに行きました。

 

すると、あっさりと採用されて郭威の養子の柴栄の直属の配下となりました。

秀吉が松下家から追い出された後に信長に出会って出世していくのと同様に、趙匡胤も王彦超から追い出されたおかげで、柴栄という名君と出会えたのです。

 

 

高平の戦(中国版 桶狭間の戦い)

 

さて、後漢は建国から4年という最短速度で滅亡しました。

郭威は部下から擁立されて皇帝となり、後周を建国しました。

 

郭威はやがて亡くなり、皇帝になったのは養子の柴栄でした。

ところが即位早々、後周に危機が到来しました。

北漢(ほっかん)と北の異民族の契丹(きったん)が同盟を結んで攻めてきました。

北漢は後漢の残党が建国した王朝です。契丹は後に遼(りょう)という王朝を建国した民族です。

 

ほとんどの部下は守戦を主張しましたが、柴栄は出陣を強く主張したので戦となりました。

後周と北漢・契丹連合軍は高平(山西省高平県)で戦いました。

 

ところがいざ戦が始まると後周は押されていき、兵士が次々と降伏・逃走を始めました。

しかし柴栄は負けずに自分が先頭に立つと、敵陣に突入しました。

俗にいう火事場のクソ力です。

 

この時に、趙匡胤は柴栄の左右を守って奮戦しました。

その結果、後周の逆転勝利となりました。

 

高平の戦は「中国版 桶狭間の戦い」とも言われています。

なお、趙匡胤はこの時の功績により、近衛兵指揮官に出世しました。

 

 

陳橋の変で皇帝となる

 

柴栄は戦争だけではなく財政面でも活躍しましたが、顕徳6年(959年)に39歳の若さでこの世を去りました。

残されたのは7歳の息子でした。信長で例えるのなら、三法師(さんぽうし)のような存在です。

 

一方、困ったのは兵士でした。

 

幼い子どもでは、乱世は乗り切れません。

そんなある日、また契丹が攻めてきたという報告が入ってきました。

 

趙匡胤は早速出陣して、その日は陳橋駅に宿泊となりました。

夜になると兵士の様子がおかしいことに、趙匡胤の弟の趙匡義は気付きました。

 

調べると兵士が趙匡胤を皇帝にしようと計画していることが発覚しました。

驚いた趙匡義は幹部を集めて協議しました。

しかし幹部の意見は兵士と一緒で趙匡胤を皇帝に擁立することでした。

 

仕方なく趙匡義は寝ていた趙匡胤を起こして理由を話しました。

酒を飲んで寝ぼけていた趙匡胤でしたが、びっくりしました。

 

その一瞬の隙をねらって、部下が黄色のマントを着せました。

黄色のマントは皇帝が着るものです。

 

逃げられないと観念した趙匡胤は皇帝になることを決意します。

ただし、皇帝になる条件として柴栄の妻子には絶対に手を出さないことを約束させます。

 

趙匡胤は後周の都の開封(かいほう)まで戻り、禅譲を受けました。

兵士は約束通り、誰も柴栄の妻子には手をだしませんでした。

 

趙匡胤の政策

 

皇帝になると趙匡胤は柴栄が生前に征服できなかった荊南・・後蜀・南漢・南唐を征服しました。

さらに武人の権力を削ぐことにも力を注ぎました。

 

理由は五代十国時代の王朝が、武人により次々と交代させられていたので、彼らからは権力を奪うことを選びました。

そこで武人には名誉職を与えて権限を奪う作戦を実行しました。

 

後に南宋も同じ手段を使っています。

さらに武人の代わりに文官を優遇するために科挙を整備しました。

 

科挙は隋・唐時代に実施されていましたが、貴族が優先合格となっていました。

そこで身分の差別無く合格できるように整備しました。

 

天下統一まであと少しでした。

 

志半ばで散る

 

しかし残念なことに趙匡胤は北漢の討伐を前に突然この世を去りました。

趙匡胤は酒好きであり、酒にまつわるエピソードがいくつか残されています。

 

そのため死因は急性アルコール中毒と推測されます。

しかし、暗殺説を唱える人物もいますが答えは闇の中です。

 

後を継いだのは弟の趙匡義でした。

天下統一は趙匡義の時代に成し遂げられるのです。

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

名君と呼ばれた柴栄の近衛兵の隊長から皇帝になった趙匡胤について解説しましたが、彼については今回解説出来なかった箇所もあります。それについては、いつかまた解説します。

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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