岳飛は南宋(1127年~1279年)初期の武人です。北宋(960年~1127年)が金軍により滅亡させられたことにより、入隊して頭角を現しました。一兵卒から軍の総司令官にまで成り上がりましたが、金軍との和議を望む宰相の秦檜や南宋初代皇帝高宗と対立をしました。その結果、養子の岳雲、部下の張憲と一緒に無実の罪で投獄されて紹興11年(1141年)に殺されました。
39歳の若さでした。金軍と死ぬまで戦ったことから、〝中国史上最大の英雄〟と称賛されています。岳飛は死後に神格化されたので、様々な故事が誕生しました。今回は岳飛にまつわる故事と研究によって嘘が暴かれた故事を解説します。
岳飛の名前の元ネタは・・・・・・
読者の皆さんも1度は、自分の名前の由来を親に尋ねたことはあるはずです。筆者も尋ねたことはあるのですが、母が覚えていないと一刀両断にしてしまいました。
話が逸脱しましたが、岳飛は珍しく名前の由来があるのです。これがびっくりしたことに生まれた日に、屋根の上で鳥が〝飛〟と鳴いたからです。
「はあっ?」と思うかもしれませんけど、岳飛は元々、農民出身ですから親からすれば、名前なんて適当でよかったのだと思います。
生まれて3日で大洪水
岳飛は生まれて3日で大洪水に遭います。
しかし、母親は岳飛を抱えて近くの瓶に入って難を逃れました。史実らしいですけど、少し出来すぎた話です。3は例えに使用される数字なので、筆者は創作と推測しています。
岳飛は32歳で節度使になる
金軍との戦いで功績を挙げていくうちに、岳飛は節度使の位を授かりました。この時、岳飛は32歳でした。得意になった岳飛がこのようなセリフを残しています。
「32歳で節度使になったのは、太祖と俺ぐらいだ」
太祖とは北宋の建国者の趙匡胤です。
これはかなり無礼なセリフでした。
後年、投獄された時に岳飛はこの件を追及されたので、言ったのは本当だったのでしょう。
よく考えたら、こんな迂闊な発言をする男のどこが中国史上最大の英雄なのでしょうか。
朱仙鎮の戦いの虚実
岳飛の有名な戦いに〝朱仙鎮の戦い〟があります。
朱仙鎮とは現在の河南省開封市の南方に位置する場所にありました。
紹興10年(1140年)に、岳飛はそこで金軍と戦って勝利しています。
あともう一息で、金軍の都まで侵入予定になっていましたが、朝廷から帰還命令が出たので、引き返した逸話は有名です。
小説やドラマは、この話を盛り上げて取り入れています。
しかし、明治37年(1904年)に、市村瓚次郎(いちむら さんじろう)という日本の学者が、この逸話に関する論文を発表しました。
市村氏は岳飛の上記の逸話に関して、疑問を抱いていたので中国まで行き調査を行った結果、ある結論を出しました。
(1)岳飛は朱仙鎮には行っていない。
(2)そもそも、〝朱仙鎮の戦い〟が存在しない。
(3)岳飛が到達したのは、朱仙鎮より南の偃城という土地まで。そこから引き返した。
上記3点を発表しており、現在日本の学会でも、ほぼ定説となっています。
背中の入れ墨
紹興11年(1141年)に岳飛は無実の罪で投獄されました。
この時に激しい拷問を受けました。
その時に、岳飛の背中に〝尽忠報国〟という入れ墨があることが分かりました。
そのためなのか後世、岳飛は忠義の臣と言われています。
しかし、宋代において入れ墨をしている武人は珍しくありません。
なぜなら、入れ墨は軍隊の逃亡防止として使用されていたからです。
また、南宋初期は勇猛果敢な内容の入れ墨を彫ることが流行っていました。
岳飛が若い時に仕えていた王彦も〝赤心報国〟〝誓殺金賊〟の入れ墨を顔に彫っていました。
岳飛の背中の入れ墨も上記のものと同様の性質です。
岳飛を忠義の臣と称賛するのは大間違いなのです。
岳飛故事の生みの親
岳飛はこのように様々な故事があります。
後世になるにつれて尾ひれが付いて、〝朱仙鎮の戦い〟〝尽忠報国の入れ墨〟の話のように誇張される話もでてきました。
では、話を盛った人は誰でしょうか。
実は岳飛には、岳珂という孫がいます。
岳珂は祖父の無念を晴らすために執筆した、『金佗粹編』、『金佗粹続編』という著書があります。
しかしこれらは極端な著書でした。
岳飛=正義、秦檜=悪
という図式が、はっきりしています。
また、歴史書の『宋史』巻365・岳飛伝も、岳珂の著書を丸写しにして執筆されています。
身内の主観が入っているので歴史的価値は、ほぼ無いと言われています。
さらに、岳珂の著書をもとに創作されたのが、小説『説岳全伝』です。
祖父の名誉のためとはいえ、嘘はいけませんね。
宋代史ライター 晃の独り言
岳飛の故事に関していかがでした。ドラマを見て岳飛に興味を持った人もいるかもしれません。そのような人たちにとって、この記事は幻滅するかもしれません。しかし、これが岳飛の本当の姿なのです。
※参考
・市村瓚次郎「岳飛の班師に就きて」(初出1904年、後に『支那史研究』春秋社 1939年 所収)
・外山軍治『岳飛と秦檜 主戦論と講和論』(冨山房 1938年)
・寺地遵『南宋初期政治史研究』(渓水社 1988年)
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