人間は生まれたからには、いつかは死にます、嫌ですけどね。では、死んだ後、三国志の時代の人々は、どのように、埋葬されていたのでしょうか?
三国志の時代の柩は四輪の車で運ぶ
テレビなどを見ていると、外国の王族や国葬級の大物著名人が死ぬと、大きな棺を四輪の台車に載せ国旗を被せて、馬車か車で牽引しながら墓地に向かうという光景が出てくると思います。実は、これと似たような光景は、後漢時代の中国に存在していました。当時は、貴族や王族が死ぬと、その遺体を何重もの木の棺に収めました。秦の始皇帝陵に眠る、始皇帝の柩も、そのような何重もの構造だそうです。当然、その柩は重くなり、人では動かせないので、四輪の車に柩を乗せて前から人夫が綱で引き墓地まで引っ張りました。その背後には、葬儀用の特別な髪形をした親族の列がうなだれて進み、周囲には、護衛か、悪霊を警戒する意味かで、剣を帯びた人が、数名ついて周囲を見張っています。
柩は人工的に築いた丘の下に埋める
さて、四輪車に載せられた柩は、郊外の墓に降ろす前に、神官による悪魔払いの儀式を受けた上で地面に下ろされます。三国志の時代の墓というのは、大きく盛り土をした人工的な丘の下に造られていました。当時の思想には、神仙思想があり、死者はできるだけ高い所に埋葬すると、神仙の引きを受けて天に登り仙人になると、信じられていました。当初は自然の山に葬ったのでしょうが、それも足りなくなると、人工的に盛り土して丘を造成して葬るようになりました。こんな目立つ造り方をして盗掘に合わないか心配になりますが、その通りで、大半の墳墓が世が乱れると、盗掘の被害に遭いました。
死後には住居も建てられる
墓に柩が納められても、これでオシマイではありません。死者を崇める事に厚い中国人は、ここからさらに、一仕掛けあります。それが、墳墓の近くに建設された死後の住居です。経済力によっては、一部屋だけを再現したものもありますが、本格的な物だと、大きな屋敷が再現され、そこに三食の食事を備えて死後も生前と変わらぬ生活が出来るようにしていました。屋敷の前には、吊るされた銅鑼(ドラ)があり、これを鳴らして遺族が来訪した事を知らせていたようです。もちろん、墳墓の中にも、不自由がないようにお酒や食事や、お金が納められていますから、何重にも手厚い埋葬です。当時の人々は、手厚い埋葬をすれば、祖先が祟りを成す事なく、逆に沢山の幸福がやってくると信じていました。度を越した埋葬には、現世利益の意味もあったのです。
罪人が刑期の途中で死ぬとどうなる?
では、貴族や王族とは別に、罪人として罪に問われ、刑期の途中で死んでしまった人々はどうなったのでしょう?罪人なので、そのまま何もせず、穴に捨てていたのかと思いますが実は、そうではありませんでした。罪を償う前に死んでしまうと、その人は、区画整理された、集団の共同墓地に、穴を掘って、一体、一体、埋葬されます。決して、何体も一緒に穴に放り込むという事はありません。そして、その墓の上には、簡単な焼煉瓦に、所属監獄、罪名と本人の名前、最期に何年、何月何日に死んだかが記録されていたのです。
1900年前に死んだ名もなき罪人、尹孝
例えば、洛陽の近くで発掘された共同墓地から出土した墓碑銘には、漢字で、このような事が書き残されていました。少府が管理する囚人労働局若盧監獄に収監されていた受刑者尹孝は頭を剃り首に鉄の輪をはめる刑を受けて5年服役していたが西暦107年5月4日に故あって死去した。尹孝の遺骸はこの土の下にある。尹孝がどんな罪を犯したか、分かりませんが少府の管轄する監獄なので、皇室に納めるべき人頭税が支払えなかったのかもしれません。尹孝は、髪を剃られて、首に鉄の輪を嵌められて、5年働かされ、体を壊したか事故かで死にました。惨めな最期でしたが、無縁仏になる事なく、共同墓地に葬られ、今日まで名前が残る事がせめてものなぐさめでしょうか。
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