魏の将軍として知られ、曹操が挙兵した時から付き従っていた夏侯惇。夏侯惇は三国志のゲームやマンガでかなり登場しているためかなりの認知を誇っている武将で、三国志をあまり知らなくても聞いた事がある人は多いと思います。
そんな彼のイメージは眼帯だと思います。しかし夏侯惇は自分の眼帯姿を非常に嫌っていたのです。どうして眼帯姿の自分が嫌いだったのか。今回はこの点を調べてみました。
日本では人気の眼帯姿
日本では眼帯姿の人物は結構人気のある人で知られています。たとえば独眼龍・伊達政宗も幼い頃病気にかかってしまい、目が見えなくなり、見えなくなった片方の目に眼帯をしていた姿は日本人なら誰でも知っています。しかし史実の伊達政宗の肖像画では眼帯をしていません。
ではどうして伊達政宗が眼帯している姿が定着したのか。それはたぶんですが、伊達政宗が登場するゲームなどで彼が必ず眼帯をしている姿があったからだと思います。そしてこの伊達政宗の眼帯姿はかなり評判がよく、彼のイメージ=眼帯姿という風に定着したのではないのでしょうか。このように日本人には眼帯しているスタイルが人気でアニメでもがん帯している姿のキャラクターが多く存在しています。
しかし中国では、眼帯姿はあまり人気がなく、体に欠損がある人物はイメージダウンしてしまうことが多いのだそうです。
初代独眼龍・李克用も自分の体を嫌っていた
独眼龍は伊達政宗が初代だと思っている方も多いと思いますが、実は違うのです。初代独眼龍の異名をもっていたのは唐の時代末期に登場した人が起源となっています。
その人物の名前は李克用といいます。彼は生まれたときから片目が悪かったのですが、戦においては非常に勇猛果敢に敵陣へ向かって突き進み、幾度も勝利を治めた将軍であったそうです。そのため李克用に独眼龍の異名をつけられることになるのですが、このあだ名を彼はすごく嫌っていたそうです。
このように中国では体に欠損があるのをすごく嫌がる風潮が強かったそうです。それは三国時代も変わりませんでした。
夏侯惇も自分の姿が大嫌いだった!!
夏侯惇は呂布討伐戦の時、流れ矢に当たって目を負傷してしまいます。夏侯惇は負傷した目が治ることなく過ごす事になります。そんな夏侯惇を軍の内部では同じ夏侯淵と区別するため夏侯惇の事を盲夏侯と呼んで、ちょっとバカにした雰囲気を持ってこのように呼んでいたそうです。夏侯惇はこのあだ名を聞いて非常に嫌だったそうです。
そのため自分の顔を鏡で見たときはイラッとして鏡を地面に投げつけてブチギレていたそうなんです。また史実では眼帯をしていたとの記載が正史三国志になかったため、片目が見えない状態のまま戦に出ていた可能性が非常に高いです。夏侯惇の眼帯イメージが定着したのはこれもやはり三国志のゲームや小説、アニメなどの影響が多きのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
日本と中国では価値観に大いに違いがあり、日本では眼帯姿のキャラクターや人物は大いに人気があります。しかし中国では目など体に欠損を持っている人物は軽蔑のまなざして見られていたそうです。
そのため夏侯惇もゲームや小説、マンガで眼帯姿のイメージが定着していますが、本人が現代に生まれ変わってこの姿を見ることになればかなり嫌な気分になっていたのではないのでしょうか。
もしかしたら夏侯惇が眼帯姿で登場しているゲームを発見したらその場でゲーム機を破壊しているかもしれません。また夏侯惇が眼帯姿で登場しているマンガを見つけたらすべて破っているかもしれません。そんな夏侯惇を見てみたいなと思うのはレンだけでしょうか。
参考 【正史三国志魏書】など
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