董卓が反董卓連合軍対策で行った軍略が洛陽から長安への遷都でした。
議論がかまびすしい董卓の遷都ですが、中国史ではどのような事件がきっかけで遷都が行われたのでしょうか。皇帝の視点に立って遷都を解説していきます。
遷都するには?
国の中心となる都を移すのですから、遷都しようといって誰もができるわけではありません。
悪玉・董卓でさえ、洛陽から長安に遷都するときに大臣らに反対されたのですから、遷都がいかに難しいかが想像できるでしょう。
遷都のメリット
董卓が行った洛陽から長安への遷都。
秦の始皇帝の時代も都として使われていました。遷都といってもまったく何もない土地に移動することは珍しく、過去に都であった場所に移すケースや自分の支配していたエリアに移すことが一般的です。
当時、董卓は洛陽に住んでいて、東側の勢力を警戒していました。もし、西にある長安へ都を移せば、洛陽を防衛拠点にできると考えたのです。
都が落とされることは国家の「滅亡」を意味しますから、作戦としては有効でした。その証拠に董卓は洛陽に残り、心おきなく反董卓連合軍を叩くことができます。
こうして、董卓は連合軍から遷都することによって国家を守ることができたのです。もし、洛陽が都のままなら、連合軍の士気は維持され、董卓は敗れていたかもしれません。連合軍側すると、あと少しで落とせそうだった都を遠くの長安に移されたことで勝利が遠のいたように感じたはずです。
遷都のデメリット
董卓によって遷都された洛陽は、やがて戦況が悪化すると董卓自身の手によって焼かれます。つまり洛陽は奸智・董卓に見捨てられたのです。
遷都された長安は栄えますが、もともと都だった洛陽は経済的にも政治的にも魅力がなくなっていきます。たとえ、董卓の手によって焼き払われなくても洛陽は都という地位を失うことで、経済的に貧しくなります。
都であるということは王宮に関わる商売が発展します。例えば、王宮で使われる食材の仕入れ、城壁の修復作業、宮女が着る衣服などを扱う商人や職人が都に集まります。長安に行けば、仕事があるかもしれないと…。
王宮では最高の品を求めますから、都となったエリアは経済面でも技術面でも発展します。遷都のデメリットを上げるならば、かつての都の衰退です。
北京は何度も名前を変えている?
現在の中国の首都は北京です。しかし、時代を紀元前にまでさかのぼると”薊”、”北平”、”南京”、”中都”、”大都”、”北京”、”北平”、”北京”、”北平”、”北京”となって現在に至ります。中華民国である台湾では、いまだに中華民国時代の”北平”を北京の名称として使っています。
南京と呼ばれたのは”遼”の時代で、遼は複都制を敷いて地域を5つに分け、それぞれに都を置いていました。そのため、中京大定府(内モンゴル自治区赤峰市)より南に位置した北京は”南京析津府”と呼ばれたのです。
大都以降に北京と北平が交互に出てくるのは中華民国と中華人民共和国、そして日本が入れ替わり統治していたからです。遷都のときと同様に皇帝は都の名前を変えることで、国のイメチェンを図っていたのです。
北京より南京の方が重要?
現在でこそ中国の首都は北京として知られていますが、歴史的には南京の方が重要視されています。その証拠に北京の故宮の原型である王宮が南京に存在し、それをベースに現在の故宮が建設されています。
また、秦の始皇帝が南京の地にやって来た際に王者の”気”があるとして南京の地形を強引に変えさせるほど魅力的な土地でした。さらに明の時代に最初の都が置かれたのも”南京”でした。その後、北京に遷都するものの南京は”副都・南直隷”として首都に次ぐ待遇を受けていました。
三国志ライター 上海くじらの独り言
遷都のメリットやデメリット、どういった時期や目的で遷都が実行されるかを紹介しました。
日本と違い、他民族国家の中国は遷都の回数も多いのが特徴です。その回数だけ、異なる民族の王朝が権力を握ったことを意味します。遷都の数が多いというのは国家が何度も入れ替わった証拠なのです。
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