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[遷都の秘密]中国皇帝のイメチェン?そのメリットとデメリット

2023年11月4日


ミニチュアで遊ぶ董卓

 

董卓(とうたく)反董卓連合軍対策(はんとうたくれんごうたいさく)で行った軍略が洛陽(らくよう)から長安(ちょうあん)への遷都(せんと)でした。

 

董卓

 

議論がかまびすしい董卓(とうたく)遷都(せんと)ですが、中国史ではどのような事件がきっかけで遷都が行われたのでしょうか。皇帝(こうてい)の視点に立って遷都を解説していきます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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遷都するには?

まだ漢王朝で消耗しているの? 董卓

 

国の中心となる都を移すのですから、遷都しようといって誰もができるわけではありません。

 

袁紹と献帝と董卓

 

悪玉・董卓でさえ、洛陽から長安に遷都するときに大臣らに反対されたのですから、遷都がいかに難しいかが想像できるでしょう。

 

 

 

遷都のメリット

君主論 董卓

 

董卓が行った洛陽(らくよう)から長安(ちょうあん)への遷都。

 

始皇帝(キングダム)

 

(しん)始皇帝(しこうてい)の時代も都として使われていました。遷都といってもまったく何もない土地に移動することは珍しく、過去に都であった場所に移すケースや自分の支配していたエリアに移すことが一般的です。

 

董卓を暗殺しようとする荀攸

 

当時、董卓は洛陽に住んでいて、東側の勢力を警戒していました。もし、西にある長安へ都を移せば、洛陽を防衛拠点にできると考えたのです。

 

袁術君08 コンフォートゾーン」から抜け出す05 董卓

 

都が落とされることは国家の「滅亡(めつぼう)」を意味しますから、作戦としては有効でした。その証拠に董卓は洛陽に残り、心おきなく反董卓連合軍を叩くことができます。

 

孫堅と董卓

 

こうして、董卓は連合軍から遷都することによって国家を守ることができたのです。もし、洛陽が都のままなら、連合軍の士気は維持され、董卓は敗れていたかもしれません。連合軍側すると、あと少しで落とせそうだった都を遠くの長安に移されたことで勝利が遠のいたように感じたはずです。

 

 

遷都のデメリット

袁家をイジメる董卓

 

董卓によって遷都された洛陽は、やがて戦況が悪化すると董卓自身の手によって焼かれます。つまり洛陽は奸智(かんち)・董卓に見捨てられたのです。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

遷都(せんと)された長安(ちょうあん)は栄えますが、もともと都だった洛陽は経済的にも政治的にも魅力がなくなっていきます。たとえ、董卓の手によって焼き払われなくても洛陽は都という地位を失うことで、経済的に貧しくなります。

 

代筆屋 商売

 

都であるということは王宮に関わる商売が発展します。例えば、王宮で使われる食材の仕入れ、城壁の修復作業、宮女が着る衣服などを扱う商人や職人が都に集まります。長安に行けば、仕事があるかもしれないと…。

 

官渡の戦い

 

王宮(おうきゅう)では最高の品を求めますから、都となったエリアは経済面でも技術面でも発展します。遷都のデメリットを上げるならば、かつての都の衰退です。

 

 

 

北京は何度も名前を変えている?

 

現在の中国(ちゅうごく)首都(しゅと)北京(ぺきん)です。しかし、時代を紀元前(きげんぜん)にまでさかのぼると”(けい)”、”北平(ほくへい)”、”南京(なんきん)”、”中都(ちゅうと)”、”大都(だいと)”、”北京”、”北平”、”北京”、”北平”、”北京”となって現在に至ります。中華民国である台湾(たいわん)では、いまだに中華民国時代の”北平”を北京の名称として使っています。

 

「遼」の国旗をバックとした兵士

 

南京と呼ばれたのは”(りょう)”の時代で、遼は複都制(ふくとせい
)
を敷いて地域を5つに分け、それぞれに都を置いていました。そのため、中京大定府(内モンゴル自治区赤峰市)より南に位置した北京は”南京析津府”と呼ばれたのです。

 

毛沢東(もうたくとう)

 

大都以降に北京と北平が交互に出てくるのは中華民国と中華人民共和国、そして日本が入れ替わり統治していたからです。遷都のときと同様に皇帝は都の名前を変えることで、国のイメチェンを図っていたのです。

 

 

北京より南京の方が重要?

 

現在でこそ中国の首都は北京として知られていますが、歴史的には南京の方が重要視されています。その証拠に北京の故宮の原型である王宮が南京に存在し、それをベースに現在の故宮が建設されています。

 

秦の旗を掲げる兵士

 

また、(しん)始皇帝(しこうてい)が南京の地にやって来た際に王者の”気”があるとして南京の地形を強引に変えさせるほど魅力的な土地でした。さらに(みん)の時代に最初の都が置かれたのも”南京”でした。その後、北京に遷都するものの南京は”副都・南直隷”として首都に次ぐ待遇を受けていました。

 

 

三国志ライター 上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

遷都のメリットやデメリット、どういった時期や目的で遷都が実行されるかを紹介しました。

 

完顔阿骨打(太祖)

 

日本と違い、他民族国家の中国は遷都の回数も多いのが特徴です。その回数だけ、異なる民族の王朝が権力を握ったことを意味します。遷都の数が多いというのは国家が何度も入れ替わった証拠なのです。

 

 

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上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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