戦国時代は「茶の湯」と呼ばれる文化が大流行しました。そのため多くの戦国大名や戦国武将が茶の湯を学んでいました。「茶の湯」を流行させた人物は千利休という人です。千利休は多くの戦国大名へ茶の湯を教えていき、「利休七哲」と呼ばれる弟子をはじめとして多くの大名や商人たちが彼の弟子となるのでした。
このように多くの戦国武将が茶の湯にはまっていた戦国時代。明智光秀もまたほかの戦国武将のように茶の湯を学んでいたのでしょうか。
そもそも茶の湯って何ぞ!?
明智光秀が茶の湯を学んでいたかを説明する前に茶の湯とは一体何なのでしょうか。茶の湯とはお茶を振舞う亭主と招かれた客が心を通い合わせた状態の一期一会をお茶を大切にすることだそうです。「一期一会」の一期は一生。
「一期一会」の一会はただ一度の出会いと言う意味です。そして茶席では何度同じ人々と会したとしても、その日の茶会は一度限りの茶会であるから亭主も客もともに思いやりをもって取り組む。
上記のような気持ちを持ってさえいれば、お茶を楽しめるというものが「茶の湯」の定義だそうです。そしてこの茶の湯の精神は大名、商人などの上流階級へと広まっていくことになります。
明智光秀も茶の湯を習っていたの??
さて上記で茶の湯の説明をざっくりとですが行った事で、多少は茶の湯のことについて分かったのではないのでしょうか。そしてここからは明智光秀が戦国時代に流行っていた茶の湯について習っていたのか紹介していきたいと思います。
結論から言いますと明智光秀も茶の湯をしっかりと学んでいました。明智光秀は他の大名や戦国武将のように茶の湯をしっかりと学んでいましたが、一体誰に茶の湯を学んでいたのでしょうか。
茶の湯のプロから学んでいた
明智光秀は茶の湯を今井宗久と津田宗及から学んでいました。二人は千利休と同じ天下三宗匠と呼ばれる実力を持つ人物で、戦国時代当時の茶の湯世界で知らない人はいないほどの実力を持った有名人でした。
明智光秀は彼ら二人から茶の湯を学びながら、ふたりと親交を深めていきます。こうして光秀は茶の湯を学ぶと坂本城で天正6年~10年まで配下の武将や織田家の武将達を招いて茶会を披露していたそうです。
光秀の茶道具コレクション
明智光秀は津田宗及と今井宗久から茶の湯を学ぶと坂本城で織田家の武将達を招いて茶会を開きます。彼は茶会を開くとき必ず名品と呼ばれる茶道具や掛軸を飾って茶会に参加した客を楽しませていました。
光秀は坂本城で開いたある茶会ではお客に千利休の弟子・山上宗二がやってきます。この時光秀は自慢の高麗茶碗・床には定家の色紙を用いて山上宗二をもてなしたそうです。
また明智光秀は博多の豪商・島井宗室を招いた時は風炉に床には定家の色紙が設置。またこれらのものを披露する前に定家の文台と定家が所持していた硯を見せています。明智光秀は他にも式部少輔肩衝、瀬戸焼天目などの茶器を多くの品を持っていたそうです。
このように明智光秀は茶の湯の世界にどっぷりとハマり、茶会を開いた際には色々な名品をお客に見せ、楽しませていたことが伺えるのではないのでしょうか。
戦国時代ライター黒田レンの独り言
明智光秀は津田宗及から茶の湯を学び、多くの戦国武将をおもてなししたそうです。文化人として知られる明智光秀らしい趣味と言えるのではないのでしょうか。
また明智光秀は織田信長から茶器をもらったことがあるそうです。明智光秀が織田信長からもらった茶器の名前は八重桜と言う名前だそうです。
しかし織田信長から持った茶器・八重桜は坂本城落城と一緒に無くなってしまったそうです。
・参考 明智光秀 野望!本能寺の変 (新人物文庫)
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