貨幣は、現代の私たちが生活するのに欠かせないものです。では、鎌倉時代はどのような貨幣が使われていたのでしょうか。
鎌倉時代、幕府が発行するお金はまだありませんでした。そのため、当時中国から大量に入ってきた宋銭を利用していました。宋銭のように、国内で発行されたのではなく外国から入ってきて流通しているお金のことを「渡来銭」といいます。
宋銭が日本に入ってきた時期とは?
宋銭は、平清盛が権力を握っていた頃から日本に入ってくるようになりました。そして、大量の渡来銭が日本国内で流通するようになりました。そのため、今でも鎌倉時代の遺跡を発掘すると、大量の渡来銭が出てくることがあるのです。この時代、宋銭は中国や日本だけでなく、東南アジアや、はるか遠くのペルシアやアフリカでも利用されていました。これだけ広い地域で流通していたということから、当時の中国が多大な影響力を持っていたということが分かります。
ちなみに、平清盛が日本国内に宋銭を流通させようと考えたとき、朝廷側は反対の立場をとっていました。平清盛には、宋銭を流通させることにとって、平氏政権の経済の基盤を固めたいという狙いがあったのです。
朝廷、幕府、庶民それぞれの違い
平清盛が日宋貿易によってもたらされた宋銭を国内に流通させようとしていたころ、朝廷の財政は絹を基盤として考えられていました。そのため、宋銭の流通が主流になってしまうと絹の貨幣としての価値が大幅に下落してしまうことから、後白河法皇をはじめ反対する貴族が続出しました。しかし、当時絶大な権力を持っていた平清盛に迎合する貴族も現れ、朝廷内にも「宋銭を絹の代わりにするべきだ」という意見が出るようになったのでした。
鎌倉時代の中頃、宋銭の流通はますます加速し、もはや朝廷は宋銭の流通を禁止することができなくなってしまいました。その理由として、絹よりも宋銭のほうがはるかに利便性が高かった、ということが挙げられます。そこで、1226年にまずは鎌倉幕府が宋銭を使用することを正式に認め、4年後の1230年、後を追うように朝廷も公式に宋銭の使用を認めたのでした。しかし、鎌倉時代の農村では物々交換が主流でした。欲しいものがあると、農作物などと交換していたのです。そのため、鎌倉時代の農村において、貨幣としての役割を果たしていたのは、お米でした。
また、鎌倉時代の終わり頃から、金融業者・金貸しも出てくるようになります。これらの人々は、土倉と呼ばれていました。室町時代になると、土倉を営む酒屋が数多く現れたため、このような金融業を営む人々を酒屋・土倉というようになったのです。
鎌倉時代の貨幣価値と物価
鎌倉時代の貨幣の単位は、「文」といいます。この1文は45円でした。そして、1000文(45000円)になると、銭1貫文と称ばれました。この銭1貫文が、米1石(約150キログラム)の値段でした。現在、ネットで買えるお米の値段を見てみると、10キログラムがだいたい3000円前後で買えることから、鎌倉時代のお米の価格とはそれほど変わらないということが分かります。
ちなみに、鎌倉時代後期になるにつれて土地の値段は徐々に下がっていきますが、農地300坪あたりの値段は10貫から20貫でした。これを現代の私たちが使っているお金に換算すると、450000円から900000円ということになります。現代の土地の価格は地域によって大きく異なりますが、鎌倉時代のほうが土地の価格は大幅に低かったということが分かります。また、鎌倉時代も現代と同じように、どこの土地も一律で同じ価格、というわけではありませんでした。京の八条大宮という土地の価格は他の地域と比べると異常に高く、通常の農地の2〜3倍の値段がついていました。
さて、現代では、都心だと億ションと呼ばれるタワーマンションがあり、鎌倉エリアにも販売価格が1億円を超える高級マンションも存在します。これをもし、鎌倉時代の武士が知ったら、「700年くらい経った後の未来では、幕府の近くの土地は2200貫もするのか!!」と驚いてしまうかもしれません。
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