本能寺で織田信長を殺害したことで一躍有名な人物となった明智光秀。明智光秀は戦国モノのアニメや漫画では必ず登場する武将ですが、謎の多い人物だったのです。今回は謎だらけの武将明智光秀について紹介していきたいと思います。
明智光秀の謎とその1:出自が不明
明智光秀の謎その1としましては生まれた場所や誰の子供なのかが分からない所です。一般的な明智光秀の生まれとしては美濃の名族・土岐氏から別れた明智家の出身とされています。土岐氏が美濃の名族であることから、明智光秀の出生地も現在の岐阜県可児市とされています。
しかしこれは一般的な説であり、明智光秀の出生や出生地には違う説もあります。例えば明智光秀は若狭小浜の刀鍛冶の次男とされ、この場合ですと出身地が若狭となります。また明智光秀は美濃明智の出身で御門重兵衛と称していたとの説もあります。さらに明智光秀の先祖は足利尊氏に仕え、かなり広大な領土を持っていたとされ、徐々に領地がなくなっていき戦国時代になると経済的に貧困になり、食べるのも困るくらい貧乏生活をしていたとの書物もあります。この通り明智光秀の出生や出生地に関しては色々と謎があり、どれが正しいのか確定されていない状況なのです。
明智光秀の謎その2:年齢も不明
明智光秀の謎のその2としましては年齢も全くわからないところです。明智光秀は出生した場所や彼の生まれ故郷もわからないこともあり、いつごろ誕生したのか不明です。一応明智光秀の年齢は「明智軍記」と呼ばれる書物に明智光秀の辞世の句が書いてあり、これを参考にされている方が多くいます。
この明智光秀の辞世の句は「五十五年の夢」と書かれていることから彼が五十五歳で亡くなったとする説もあります。明智光秀は天正10年(1582)年に亡くなっており、彼の年齢が五十五歳だったと仮定して、逆算すると彼の出生年は享禄元年(1528年)になります。
この明智光秀五十五歳説は「明智軍記」の他に「明智氏一族宮城家相伝系図書」と呼ばれる書物にも彼が享禄元年に生まれていると記されています。しかし「明智軍記」が歴史的な資料の中でも信憑性にかける書物で信用できない部分があるため、この説が有力説としてはまだ認められていないそうです。
上記の説以外にも永正13年(1516年)説もあり、この場合ですと明智光秀が本能寺の変で織田信長を殺害した頃の年齢は六十七歳というほとんどヨボヨボなじいさまとなっています。このように明智光秀の年齢に関してもまだまだ確定的なことが言えず、謎のままとなっています。
明智光秀の謎その3:信長を殺害した動機が謎??
そして明智光秀の謎その3は明智光秀が本能寺の変で織田信長を殺害した動機です。
明智光秀は織田信長を殺害した動機はいろいろな説が有ります。例えば朝廷の公家たちが明智光秀をそそのかした説や足利義昭が明智光秀を動かして織田信長を殺害した説。
また羽柴秀吉が明智光秀を促して織田信長を殺害させた説などがあります。
このように明智光秀が織田信長を本能寺で殺害した理由ついても多くの諸説が残っており、確定的な殺人動機が見つかっていない状況です。この点も明智光秀の謎の部分の一つと言えるでしょう。
戦国史ライター黒田レンの独り言
明智光秀が歴史の資料に登場するのは永禄九年(1566年)の田中城籠城で初めて彼の名前が出てきます。しかしそれ以前明智光秀が一体どこで何をしていたのか現在のところ全く分からずこちらも謎となっています。
明智光秀は生まれた場所や誕生月、彼の年齢などなど多くが謎のままとなっている戦国武将なのです。しかしわかっていることは明智光秀は織田軍の方面司令官クラスの武将であったことからかなり優秀な人でだったことは間違えないと言えるでしょう。
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