1868年、戊辰戦争が勃発しました。戊辰戦争の最初の戦争は鳥羽伏見の戦いで、鳥羽伏見の戦いの直後に大久保利通が大阪遷都案を明治天皇に提案しました。ほとんど同時に、江藤新平が東京遷都を提案します。今回は大久保利通の大阪遷都と江藤新平の東京遷都をそれぞれ取り上げ、東京遷都に至るまでの過程を取り上げます。
大久保利通による大阪遷都とは?
鳥羽伏見の戦い直後の江戸について、情勢が安定していないと考えられます。そこで、参与となった大久保利通は、天皇が石清水八幡宮を参詣した後大阪行幸を行って、その後も大阪に滞在することを提案しました。大久保の大阪行幸と大阪遷都の狙いは次の通りです。朝廷の古くからの慣習を一新するには遷都が必要であり、外交を進めることや海軍と陸軍を整えるのが狙いです。しかし、大阪と京都が隣接していますが、京都を放棄するとして公卿らが反対し、大久保の大阪遷都案が廃案になりました。代わりに、一時的な大阪行幸が認められました。
江藤新平による東京遷都とは?
1868年、江藤新平らは佐賀藩論として東西に首都を置く「東西両都案」を提案しました。江戸を東京都改めたうえで、東京と京都を鉄道で結ぶという計画でした。1868年4月に天皇が大阪行幸を行います。大阪に滞在している間に天保山で軍艦を観覧して、京都に戻りました。大阪に滞在している間に、江戸城の無血開城が決まり、関心が大阪から江戸に移っていました。
1868年5月に、徳川氏が江戸から駿府に移されることが決まりました。同時に東西両都案も決まり、江藤らに首都として適しているかどうか調査をさせました。調査の結果、東京への遷都が可能であることが報告されましたが、京都への配慮から東京遷都を明確にしませんでした。
江戸城無血開城に前島密らによる江戸遷都論が大久保に届けられました。前島らの建白書によれば、大阪は遷都しなくても衰退の心配がないことや江戸を都にしなければ寂れてしまうことから江戸(東京)に遷都すべきと提案しました。また、江戸城は無血開城となったため、戦火にはなりませんでした。これまでに使用していた藩邸や役所をそのまま利用でき、新築の必要がないことから費用のかからない遷都ができることも理由の1つとして挙げています。
前島らによる建白を聞いて、大阪遷都案を提案した大久保も東京遷都案を支持するようになりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は大久保利通らが提案した大阪遷都案と江藤新兵らが提案した東京遷都案を比較する形で、東京遷都に至るまでの過程を取り上げました。ここでは、東京に首都機能を移した後の京都について取り上げます。
首都を東京に遷都した結果、京都は多くの公卿が東京に移ったため、人口が大幅に減少しました。京都の人々は京都再興のために尽力します。主なものでは、平安神宮の創建が挙げられます。1895年に平安遷都1100年を記念して、京都再興のために平安神宮が創建されました。平安神宮は平安時代に創建されたと思われがちですが、明治時代に東京遷都で寂れた京都を再興するために建てられたとは意外です。今では京都の観光名所の1つとなっています。
京都の三大祭りと言えば葵祭・祇園祭・時代祭が挙げられます。その1つである時代祭は明治時代の平安神宮創建時に始まりました。京都三大祭りの中では比較的しい祭りです。時代祭とは8つの時代の衣装のコスプレをした行列が京都の町を歩きます。時代と行列の順は次の通りです。明治維新・江戸時代・安土桃山時代・室町時代・吉野・鎌倉時代・平安時代(国風文化、藤原摂関政治)・延暦(平安時代初期)と時代を遡る形で続きます。
参加人数は約2000人で、長さは2km、約3時間の行程です。
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