今回は尊王攘夷派の三条実美について取り上げます。三条実美は幕末の「禁門の変」で京を追われた公家という印象を受ける人がいると思いますが、この記事では家系図や子孫について触れながら、三条実美について取り上げます。
三条実美とは?
1837年、議奏を務める三条実万の三男として生まれました。三条家は先祖が藤原鎌足・藤原不比等で、平安時代には摂関政治で有名な藤原道長・頼道親子がいます。父・三条実万と同じく、三条実美は尊王攘夷派の公家として活躍しました。
1863年の八月十八日の政変によって三条実美は朝廷を追われ、長州に移りました。翌年、長州藩は報復として禁門の変を起こしましたが、幕府と薩摩藩の連合軍に敗れ、京を追われました。禁門の変に対して、幕府は第一次長州征伐を行いました。三条実美は第一次長州征伐から幽閉生活を送ることになり、政治の表舞台に出ることはありませんでした。この間に坂本龍馬ら幕末の志士と会談をしています。
明治時代になると、王政復古の大号令により政治の表舞台に復帰しました。明治新政府で議定・副総裁となり、1871年に太政大臣となりました。
1885年、太政官制が廃止され、内閣制度に移行すると、三条実美は内大臣になりました。1890年に貴族院議員の議員となりましたが、1891年にインフルエンザ罹患により55歳で死亡しました。墓は東京都文京区の護国寺にあります。三条実美の子孫は神社の宮司や貴族院議員を務めています。
三条実美と岩倉具視
幕末の尊王攘夷派で、朝廷の中では三条実美と岩倉具視が一括りにされますが、三条実美と岩倉具視の仲は悪かったようです。三条実美は名門出身で、エリートコースを歩んでいました。性格は温和であったといわれています。
岩倉具視は下級の公家でした。桜田門外の変後、幕府は公武合体派に変わり、朝廷と幕府の融和を目的として和宮降嫁がありました。岩倉具視は孝明天皇の側で和宮降嫁に関与しましたが、失脚しました。岩倉で貧しい暮らしをしていて、幕末の志士から木戸銭を受け取って生活をしていましたが、岩倉は強い意思と行動力によって下級の公家から政治の実権を握る立場になりました。
明治政府で、三条実美は太政官制のトップの太政大臣を務めましたが、岩倉具視は岩倉具視の団長として欧米視察に出かけました。岩倉使節団が帰国すると、明治政府内では西郷隆盛らの征韓論者と岩倉使節団が対立していました。
1873年、明治六年の政変で西郷隆盛ら征韓論者と帰国した岩倉使節団との対立で板挟みとなり、心労で倒れました。明治六年の政変の結果、西郷隆盛ら征韓論者は明治政府を去りましたが、三条実美の代理として岩倉具視が太政大臣代理として事態を収拾しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は三条実美について取り上げました。三条実美といえば、八月十八日の政変で、尊王攘夷派の筆頭で京を追われた公家で明治政府では太政大臣を務めた人物という印象を受ける人がいるかもしれません。この記事では、太政大臣の頃に明治六年の政変において心労で倒れたことを取り上げました。2018年の大河ドラマ『西郷どん』で、三条が倒れたシーンがあったことから思い出した人がいるかもしれません。
最後に、五摂家に次ぐ名門出身の三条実美を取り上げました。藤原摂関家は鎌倉時代に一条・二条・九条・鷹司・近衛の五摂家に分かれます。摂関政治は平安時代に終わったという印象を受ける人がいるかもしれませんが、実際は幕末まで続きました。王政復古の大号令によって摂政と関白の地位は廃止されました。
今後、幕末から明治維新までの激動の時代における一条・二条・九条・鷹司・近衛の五摂家の人々に注目したいと思います。
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