岩倉具視の性格や出身は?ヤモリと呼ばれた男の生涯

2018年8月12日


 

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岩倉具視

 

かつては500円紙幣の顔として日本人になじみのあった気難しそうな洋装の人それがヤモリ、変節漢(へんせつかん)とも呼ばれた公家の岩倉具視(いわくらともみ)です。西郷(せご)どんでは、笑福亭鶴瓶(しょうふくていつるべ)さんが演じる王政復古(おうせいふっこ)の功労者として歴史に名を残した岩倉具視とある漫画では、筋肉マッチョに描かれる岩倉はどんな人物だったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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公卿の家系に生まれた名門岩倉具視

 

岩倉具視は1825年、公卿、堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として京都に生まれます。堀河家は上から四番目の羽林家で武家なら大名クラスの家格で名門です。幼名は周丸(かねまる)ですが、子供の頃から公家らしくない言動と行動で知られ、同年代の公家からは岩吉(いわきち)や山賊の親分とあだ名されていました。

 

婉曲表現が当たり前の公家社会で周丸だけは、直接的にモノを言い頭脳明晰で口喧嘩も得意でした。周丸は学問を修める為に、儒学者の伏原宣明(ふしはらせんめい)に入門しますが、この時に伏原は周丸の非凡な才能を見抜き、子供のいない岩倉家への養子縁組を積極的に勧めました。

 

その甲斐あって、周丸は1838年、羽林家、岩倉具慶(いわくらともよし)の養子に入り伏原により具視(ともみ)の名を与えられました。岩倉家は武家で言えば大名格でしたが、江戸中期に村上源氏久我家から分家した新家で当主の家格や叙任を受ける官職は高いモノではありませんでした。おまけにこれという稼業もないので、岩倉家の生活は他の公家同様に苦しいものだったようです。

 

 

押しが強い性格で鷹司政通の門人として政治家デビュー

御所

 

1853年ペリー来航の年、岩倉具視は歌道の師として関白(かんぱく)鷹司政通(たかつかさまさみち)に就きます。この鷹司政通、当時の朝廷では異例の30年に渡り関白の地位にありました。その権勢も高いもので、家格は低い岩倉も押しが強い性格を活かし、鷹司を通して因習だらけの朝廷の門閥主義(もんばつしゅぎ)の緩和や実力主義の登用を提案し続けますが、まだ、京都までは幕末の騒乱が届いていない時期であり政通は理解は示しつつも岩倉の意見書を取り上げる事は少なかったようです。

 

ガンバレ徳川

 

 

関白九条尚忠に激しく詰め寄り幕府の条約勅許を拒否させる

公家

 

1858年、時代は大きく動きます。アメリカと日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結するにあたり、水戸藩や諸藩の攘夷派を説得する自信が無かった幕府は、「天皇から勅許取れば文句ねえっしょ」と堀田正睦(ほったまさよし)を京都に派遣します。当時の関白、九条尚忠(くじょうなおただ)は天皇に許可を与えるべしと進言しますが、それに対し猛反発した攘夷派公家が大原重徳(おおはらしげとみ)を中心に九条家に怒鳴り込む廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)が発生します。

 

元々、孝明天皇も開国には反対であった為に、ついに堀田正睦に勅許は与えずついに過去250年類例がない、幕府の要求を朝廷が拒否するという事態が起きます。岩倉(いわくら)は、この時に攘夷派の公家をまとめる役割をし、もっとも九条尚忠に激しく詰め寄るなど、政治的な才能を開花させました。ただ、岩倉は単純な攘夷派ではなく、日本から西洋各国に使節を派遣して国情を視察する事や、幕府を取り潰したりせず、幕府中心に諸藩が力を合わせ日本の防衛に当たる事や、沿岸の防衛システムを整備する事などを意見書として出しています。つまり、この頃の岩倉は公武合体派で考えとしては攘夷だったのです。

 

 

安政の大獄では朝廷を守ろうと幕府に接近

井伊直弼

 

しかし、天皇に勅許を拒否された幕府では、大老井伊直弼(いいなおすけ)が、勅許を得ないで独断で諸外国との通商条約を続々と締結し始めます。それに対して、水戸藩や全国の攘夷派が反発すると井伊直弼は、これを反動と見做して逮捕し弾圧を開始しました。後に安政の大獄(あんせいのたいごく)と呼ばれる大弾圧事件です。

 

井伊直弼の追及は武士ばかりでなく、尊攘派の公卿にまで及びます。これに危機意識を持った岩倉は、京都所司代(きょうとしょしだい)伏見奉行(ふしみぶぎょう)と頻繁に接触し天皇は幕府を信用している事を告げ朝廷と幕府の分裂を回避するように行動するようになります。特に京都所司代の酒井忠清(さかいただきよ)と岩倉は意気投合し、以後の岩倉は幕府寄りの立場を取るようになりました。

 

 

和宮降嫁、公武合体で主導的な役割を果たす

和宮降嫁

 

安政の大獄は、大老井伊直弼が桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で暗殺される事で終結します。これは、幕府の権威を地に落としてしまう痛恨事でした。幕府も井伊の強硬路線を変更し朝廷と協調する公武合体路線が勢いを増していきます。そこで、幕府は14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と孝明天皇の皇妹和宮(かずのみや)との縁組を打診当初、孝明天皇はすでに許嫁(いいなづけ)が決まっている事を理由に拒否しますが、権威回復に朝廷の力が必要な幕府は執拗に要請します。

 

この時、岩倉は孝明天皇の侍従(じじゅう)で意見を求められます。岩倉の意見は、幕府は権威が落ちた事を公武合体で粉飾(ふんしょく)するつもりであるという事を分析しつつ、本来なら朝廷が民心を統合する役割を果たすべきだが今は、幕府から朝廷が距離を取るのは内乱を招き時期尚早なので、現状では命令機関を朝廷とし、実行機関を幕府とするのが最善と結論しました。

 

そして、和宮降嫁については、幕府が朝廷の許しを得ずに締結した通商条約を破棄する事を確約するなら認めても良いでしょうと言いました。

 

幕末時代のヒソヒソ

 

 

幕府は出来っこない攘夷に難色を示しましたが、これ以外に方法がないので結局、最長で十年の間に条約を破棄するか武力攘夷を実行すると約束します。ただ本気で条約を破棄するつもりはなく、10年あれば状況も変わるだろうと問題を未来に先送りしただけの決断でした。

 

幕府が条件を呑んだ事で天皇も和宮降嫁の許可を出します。岩倉はそのまま、和宮の行列が江戸に至るまでの一切の手配を任されます。また、その頃、巷では幕府が和宮を人質にして孝明天皇を廃帝するという噂が流れたので岩倉は老中連ばかりでなく、将軍家茂にも証文を書かせました。これも意味のない事ではなく、岩倉は朝廷の上位を印象づける為にやりました。孝明天皇は、このような岩倉の毅然とした態度を喜んでいます。

 

 

尊皇攘夷派の台頭で失脚

幕末時代の夜討

 

しかし、井伊直弼の後を受けた、安藤信正(あんどうのぶまさ)、くぜひろちかのコンビも、坂下門外の変で、安藤が水戸浪士に襲われた事を契機に失脚、さらに幕府は権威を失墜し、逆に尊皇攘夷の熱は広がりました。1861年には長州藩が長井雅樂(ながいうた)が主導する航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を朝廷に上奏、こちらは公武合体を前提にした内容なので幕府も異存なく受け入れます。ところが、幕府寄りの提言は、もはや倒幕しかないと息巻く、尊皇攘夷の志士には不満でした。

 

島津久光

 

 

そこへ薩摩から島津久光(しまづひさみつ)が幕府に無断で上洛、京都に至り、幕府に対して政治改革案を突きつけ成功します。これが文久の改革で結果として、この時に、安政の大獄で失脚した一橋慶喜や松平春嶽が返り咲きます。これにより尊攘派は久光に期待し、討幕の兵を挙げようとしますが、久光は倒幕には否定的で幕府を中心に朝廷を頂点にして政治を行おうという態度でした。

 

さらに、寺田屋で挙兵しようとした薩摩藩士を上意討ちしたので久光は一気に攘夷派からの声望を失います。ここで、長州藩が変質し、幕府と妥協した航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を破棄して徹底した尊皇攘夷を唱えました。まもなく、久光は将軍後見職に就任した一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)と意見が合わずに京都を去り、それに従い、過激な全国の攘夷志士が京都に集結朝廷内の幕府寄りの人間を天誅と叫んで殺すテロリズムが吹き荒れます。

 

この時に岩倉は、和宮降嫁を主導した幕府寄りの人物として、殺害予告を受けるようになります。ここで並の豪傑なら、「私には何も(やま)しい点はない」と豪語してそのまま官職に居座り殺害されてしまうパターンですが、岩倉は視野が広く用心深い性格なので、いよいよ尊攘派の追及が激しくなってくると、あまり抵抗せず官職を辞し各地の寺を転々とし最後は郊外の岩倉村へと蟄居(ちっきょ)してしまうのです。

 

 

隠居中に幕府を見限り西郷隆盛に接近

 

しかし、岩倉村に隠居しても内心、岩倉具視の腸は煮え繰りかえっていました。ただ、岩倉の偉い所はここで下手に動かなかった事です。京都を席巻した長州尊攘派の勢いも、天皇の勅を勝手に出したり他藩に上から目線で命令するようになると、次第に不興を買うようになり、1864年、太陽暦8月20日、禁門の変が勃発、朝敵になった長州藩は戦いに敗れ尊攘派の勢力は大きく減退しました。

 

ただ、その事によって岩倉の処分が取り消されたわけではありません。ですが、その頃から薩摩藩士や朝廷の仲間が岩倉の下を尋ねて密議を重ねます。尋ねてくるメンバーには大久保利通(おおくぼとしみち)西郷隆盛(さいごうたかもり)もいました。このような経緯から、1865年頃から岩倉は政治活動を再開し意見書を朝廷に提出するようになり、同時に幕府がもう権威を回復する事はないという薩摩藩の大久保や西郷の意見に傾倒して、この頃から薩摩や長州の雄藩が天皇を擁して国政を動かす倒幕へと考え方を変えました。

 

 

大政奉還、王政復古で本領発揮

 

岩倉は蟄居している岩倉村から頻繁に書簡を往来して情報収集に努めます。第二次長州征伐では、薩摩藩と歩調をあわせて長州藩に寛大な処分を求め薩摩と長州が接近するのをアシストしていきます。第二次長州征伐が幕府軍の士気の低さから失敗、徳川家茂が死去して和睦という結果になり、幕府の力は取り返しがつかない程に凋落しました。

 

岩倉は朝廷に返り咲こうと工作しますが、孝明天皇は親幕府であり、これを許しませんでした。すでに幕府を見限った岩倉は天皇を頑迷固陋(がんめいころう)な人物と批判したと言われ両者の間には、すでに深い溝が出来ていました。それが、孝明天皇の急死に岩倉が関与しているとする説に繋がるようです。

 

 

1867年、1月孝明天皇の皇子である睦仁親(むつひとしんのう)が即位して明治天皇となります。しかし、相変わらず天皇の補佐は親幕の二条斉敬(にじょうなりたか)や中川宮であり、変わらず天皇は将軍になった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に握られている状態でした。岩倉は慶喜に警戒されて、中々赦免されず、ようやく11月に赦免されますがその頃には、慶喜は討幕の穂先をかわす為に大政奉還を行っていました。

 

ですが、これは形だけの事であり、政権を返しても全国を支配する組織も外交のノウハウもない朝廷がすぐに行き詰まるのは当然でその時には、引き続き慶喜が政治を担当するのは目に見えていました。幕府は倒れても徳川慶喜を頂点とする徳川家四百万石が、引き続き日本を支配するというのが大政奉還のカラクリです。

 

 

 

そして、このカラクリは親徳川の中川宮と二条斉敬が天皇の側近として存在する限りは、確実に成功すると思われました。ここに至って、薩摩の西郷(さいごう)や大久保、それに岩倉は徳川慶喜の力の源泉である四百万石の直轄領を朝廷に返上させようとします。1868年の太陽暦1月3日、岩倉は土佐(とさ)安芸(あき)尾張(おわり)、薩摩、越前(えちぜん)の藩兵を動員して御所を封鎖、親徳川の勢力を追放した上で王政復古の大号令を出し徳川慶喜を政権から除外した上で、その領地の返納を命じました。

 

 

小御所会議で容堂を一喝、鳥羽伏見の戦いへ繋げる

 

親徳川を排した岩倉と薩摩藩ですがクーデターに同調した五藩でも足並みは揃わない状態で、特に山内容堂(やまのうちようどう)は慶喜の欠席評定は公平ではないと岩倉や大久保を攻撃しました。防戦一方になった岩倉ですが、容堂が酒の勢いで口を滑らし「幼い天子を一部の人間が操っている」と発言した言葉尻を捉え、畏れ多くも聡明なる聖天子に幼いとは不敬であろうと反撃し、これで勢いを削がれた容堂は発言力を封じられます。

 

この時、休憩を挟み西郷隆盛は裏方に控えていて「匕首(あいくち)一本あればケリはつきもす」と発言暗に、あくまで反対するようなら容堂を刺せと激励された岩倉は後半でも会議をリードし、慶喜に領地の半分の二百万石を返納させる事で決着させました。その後も、慶喜は大阪城で議決を受け入れたような受け入れていないようなのらりくらりとした対応に終始しましたが、薩摩藩の江戸での挑発行為にまず江戸で薩摩藩邸が焼き討ちされます。これを受けて大阪の幕臣達も暴発、慶喜を擁して京都に進軍し、それを阻止しようとした薩摩藩兵との間で戦端が開かれます。鳥羽伏見の戦いがそれで、天皇に対して砲撃した慶喜は完全に朝敵となり命運は完全に尽きてしまうのです。

 

 

死因は咽頭癌、ガン告知を日本で初めて受けた岩倉

 

明治政府での岩倉は、三条実美(さんじょうさねとみ)と二頭体制で政治を運営していきますが、事実上の公家のトップは岩倉であり、大久保や西郷、木戸と連携し初期の明治政府のけん引役になります。意外ですが、岩倉は遣欧使節団に参加した時に、西洋の鉄道の力に注目し日本にも一刻も早く鉄道を通さないといけないと考え、自ら私鉄日本鉄道の総裁に就任し、東北本線、山手線、常磐線、高崎線やそれらの各駅、上野駅、新宿駅、青森駅等を整備しました。

 

岩倉は征韓論争では、大久保や木戸と共に征韓論反対の立場を取りすでに天皇の裁可を得ていた西郷の派遣を潰すなど暗躍し明治六年の政変などを引き起こすなどします。岩倉は盟友の大久保の死後も生き残りますが、明治十六年に初頭に体調を崩し、エルヴィン・フォン・ベルツの診断を受け咽頭癌(いんとうがん)の告知を受けています。これが日本初のガン告知とされています。病状が進んだ岩倉は回復せず、同年7月20日に死去しました。

 

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

岩倉具視は、時には幕府、時には薩摩と明確な思想がない変転極まりない人物に見えます。しかし、実際はそうではなく朝廷の威信を高めて日本の政治を取り戻そうと考えた部分は、ほぼ一貫していました。ただ、初期は朝廷の天皇の相方として徳川幕府を選び、禁門の変の後は、幕府を見限り、薩摩と長州のような雄藩が連合して天皇を頂点とした中央集権政体を目指しただけです。

 

豪胆なだけでなく慎重さを併せ持ち、無理をせず辛抱強くチャンスを待ち常に裏で暗躍する様子からヤモリと言われましたが、それこそが、変転極まりない幕末から明治まで岩倉に天寿を全うさせた秘訣でした。

 

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西郷どん

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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