景帝といえば聞き覚えがあるという人は多いのではないでしょうか。景帝は後漢王朝の初代皇帝・光武帝の祖先であり、三国志で活躍する蜀漢の劉備の祖先であると言われている皇帝ですからね。その真偽は定かではないものの、彼らが胸を張って景帝の子孫を自称したのには訳があります。
それは、景帝が素晴らしい政治を行った皇帝として父・文帝と共にその治世を「文景の治」として讃えられているからです。果たして、後世まで讃えられている景帝とはどのような人物だったのでしょか?その素顔に迫ってみたいと思います。
身内を殺しちゃったけどちゃっかり即位
素晴らしい政治を行ったという景帝。民草を慈しんだという彼はきっと素晴らしい人格者に違いないと誰もが思うことでしょう。ところが、景帝は決して人格者とはいえないことを皇太子時代にやらかしています。ある日、又従兄弟である呉王の世子・劉賢が文帝に拝謁に訪れました。
その拝謁の後は宴会が催され、景帝と劉賢は六博というサイコロを使った双六のようなゲームに興じていたのですが、劉賢もその臣下も無礼極まりない奴らで、サイコロの目を誤魔化したり下品な声を上げたりとやりたい放題。景帝も流石にブチギレ、六博の盤を持ち上げて劉賢に向かって投げつけました。すると、劉賢の頭に盤がガツンとクリティカルヒット。当たり所が悪かったらしく、劉賢はそのまま亡くなってしまったのでした。
劉賢の不遜な態度に腹が立ったとはいえ、人を殺してしまった景帝。皇太子の位も剥奪されるかに思われましたが、なんとそのまま皇帝に即位。というのも、4人の兄が早死にしており、ようやく景帝という成人した跡継ぎができたため、簡単に景帝を廃することはできなかったのでしょう。文帝にとって景帝はかわいい息子だったはずですしね。しかし、この事件が景帝の人生に大きく後を引くことになるのです…。
父・文帝の政治を受け継ぐ
父・文帝の素晴らしい政治手腕を傍で見ていた景帝は文帝の政治をなぞることに努めました。皇帝らしからぬ質素倹約な暮らしをし、費用が嵩む外征もなるべく行わず、農業を推奨して減税政策を打ち出すなど人々の生活を安定させる政治を行ったため、父・文帝の治世と同様、人々は景帝の治世を大変喜んだと言います。
肥大した諸侯王たちの封土を没収
素晴らしい政治によって人々に愛された文帝でしたが、彼にも悩みがありました。というのも、景帝の時代には領地を持つ諸侯王たちの国が半分独立国状態になっていたのです。彼らの力がますます肥大すればゆくゆくは中央の脅威になりかねません。
信頼していた臣下である鼂錯の言葉を受け、景帝は重い腰を上げて諸侯王の領後の没収を行うことにします。ところが、当然と言うべきか諸侯王たちは反発を覚えるように。その不満は悶々と募り、ついにはかつて世子・劉賢を殺された呉を中心に密かに反乱計画が練られることになってしまったのでした。
ピンチ!呉楚七国の乱が勃発
景帝への反乱計画が実行に移される時が来ました。呉楚七国の乱の始まりです。
呉・楚・趙・膠西・膠東・菑川・済南の7国の王たちが「奸臣・鼂錯を討つ」という名目で挙兵。中央を凌ぐ兵の数に景帝もビビりまくっちゃいます。
しかし、そんなとき景帝の脳裏をよぎったのは亡き父・文帝の言葉でした。「何かあれば袁盎に相談しなさい。そして、周亜夫に軍を任せなさい。」景帝は父の言葉通り、さっそく袁盎に相談します。ところが、袁盎の口から出てきたのは「鼂錯を殺害せよ」との言葉。大切にしていた鼂錯を殺すのは景帝にとってあまりにも辛いことでした。
しかし、相手の大義名分が「鼂錯を討つこと」だったために景帝は渋々鼂錯を処刑します。やはり鼂錯を処刑しただけでは反乱は収まりませんでしたが、反乱軍の拡大を食い止めることには成功しました。そして、その反乱軍を抑え込むことに成功したのはやはり父の言葉通り周亜夫でした。周亜夫は様々な戦法を用いて反乱軍の戦意をそぎ落とし、軍を崩壊させて反乱を鎮圧して見せたのです。父の言葉をよく聞いていた景帝は呉楚七国の乱という危機を乗り越えることができたのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
若い頃はちょっと思慮に欠ける行いがあった景帝ですが、父・文帝の振る舞いや言葉をよく覚えていたことで後世の人々にまで讃えられる存在となりました。父の偉大さは勿論のこと、景帝の素直さは多くの人々にとって見習うべき美点たり得るのではないでしょうか。
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