宋(北宋・南宋)は消費経済の時代として知られています。唐(618年~907年)までは経済も自給自足の生活が主だったので、貨幣に対する関心は薄い方でした。しかし、五代十国時代から消費階級が増加したので、貨幣に対する関心が一気に高まりました。それは宋の時代に最高潮に達しました。
今回は宋代に流通した宋銭に関するエピソードを紹介いたします。ちなみに宋銭は銅・鉄で出来ていたらしいですが、1番多かった材質は銅銭のようです。
腹に銭を詰める
北宋の第2代皇帝趙匡義の淳化4年(993年)のことでした。四川省の彭山県に斉元振という知事がいました。見た目は清廉潔白ですが、裏では高い税金をしぼりとって民をいじめていました。だが、朝廷は斉元振の悪行に全く気付いていませんでした。前から四川の民は、北宋の統治に不満を抱いていたので、とうとう怒りが爆発しました。四川の王小波と李順の2人が反乱を起こしたのです。
反乱軍は斉元振の役所を襲撃して彼を殺しました。反乱軍は斉元振の腹を切り裂くと、そこに銅銭を詰めました。民の怨みがいかに深いのか分かります。この反乱は宋の3大反乱の1つ〝王小波・李順の乱〟と呼ばれており、鎮圧に約2年という歳月をかけた大規模な反乱になりました。
野菜を購入して処罰
宋代に地方政治で成績優秀な人物に張詠という人がいました。前述の王小波・李順の乱の時も従軍しており、さらに鎮圧後も統治に携わっていました。将来の宰相候補と言われていた人です。ところが、頭がカチコチで規律にうるさい人でした。ある日、城門の上から民の様子を眺めていた時のことです。百姓の1人が銭で野菜を購入して帰っている姿を目撃しました。
「百姓が野菜を買っている。つまり、あいつはなまけものだ!ひっとらえろ!」
凄い推理ですね。『名探偵コ〇ン』の毛〇小〇郎も土下座する推理力です。あわれな百姓は捕まえられて、ムチで叩かれる処罰を受けました。
本当に張詠は地方統治で成績優秀だったのでしょうか。
この話を読んだ限りでは冤罪が多かったと私は思います。しかし、この話は冤罪という見方をするだけではありません。宋代が商品流通が発達して、誰でも物品購入が出来るようになったという見方もあります。だが、張詠はこういう性格が災いしたらしく、死ぬまで宰相になれませんでした。もうちょっと頭は柔軟にした方がよいですね。
四川で銅銭は流通していない?
最初に王小波・李順の乱で殺された斉元振が腹に銅銭を詰められた話をしました。実は四川で銅銭は流通していなかったのです。建隆元年(960年)に趙匡胤が北宋を建国した時に、宋銭の統一を始めました。
五代十国時代は、それぞれの国が勝手に単位を決めて銭を流通させていたので統一された貨幣はありません。ようやく北宋の貨幣統一が出来たのは、太平興国2年(977年)でした。しかし、四川には銅銭は流通しませんでした。理由は銅銭にありました。 銅銭は1、2枚程度でしたら、簡単に持ち運び出来ますが、100、200枚と運ぶのはかなりの重労働です。
ましてや四川の山奥に運ぶことは、かなりの労働になります。おそらく斉元振の腹に詰められた銅銭というのは、彼の貯金や賄賂と考えられます。四川で銅銭の代わりに流通していたのは紙幣や有価証券です。最初は四川の商人の組合いが勝手に作って流通させていたので、政府公認の紙幣ではありません。紙幣は交子と言いました。後に政府が権利を買い取って使用します。南宋では会子と言います。しかし、南宋では戦争失敗等の経済危機から莫大なインフレを起こします。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が宋代の宋銭にまつわるエピソードをいくつか紹介しました。執筆後に調べて分かったのですが、今回紹介した張詠は、北宋第3代皇帝真宗のお気に入りの宰相を侮辱したことから、出世の道を閉ざされました。やっぱり頭がカチコチですね・・・・・・
※この記事は谷川道雄・森正夫編『中国民衆叛乱史2 宋~明中期』(東洋文庫 1979年)を参考に執筆しました。
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