平野国臣と言えば、幕末に詳しい歴史ファンや大学入試の日本史を勉強した人にとって生野の乱を起こした人物として有名です。平野国臣と西郷隆盛との関係についてはほとんど知られていません。この記事では、平野国臣と西郷隆盛との関係について取り上げます。
平野国臣ってどんな人?
平野国臣とは福岡藩の藩士でした。尊王攘夷派の志士として、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の真木和泉らと親交をもちます。1862年、寺田屋事件を起こしますが、失敗しました。事件後投獄されますが、大和国での天誅組の変に呼応する形で、但馬国生野で生野の変を起こしますが、失敗に終わりました。生野の変の後に捕らえられましたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害されました。
月照ってどんな人だった?
月照は1813年に大坂の町医者の長男として生まれました。その後、京都の清水寺成就院に入り、住職となります。月照は住職になると、尊王攘夷派の公家たちと関係を持ちます。また、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋(徳川)慶喜を支持しました。
安政の大獄で、一橋慶喜を支持した一橋派への弾圧が始まると、幕府から危険人物とみなされるようになります。将軍継嗣問題で一橋派を支持していた頃から、西郷隆盛と親交がありました。西郷隆盛と月照は京都を脱出して薩摩藩に逃れました。薩摩藩は月照を保護することを拒否して「日向国送り」を命じます。日向国送りとは薩摩国と日向国の国境で殺害することです。
月照は日向国送りを知り、西郷とともに入水自殺をしました。月照は死亡しましたが、西郷は奇跡的に一命を取り留めました。月照の墓は京都市の清水寺と鹿児島市の南洲寺にあります。月照の命日である11月16日に「落葉忌」として法要を行っています。
西郷と月照が入水した理由とは?
西郷隆盛は薩摩藩の国父・島津久光から月照を「日向国送りにせよ」と命じられます。日向国送りとは薩摩国と日向国の国境で斬首するということです。西郷は錦江湾で船の上で月照と酒を酌み交わしますが、西郷はギリギリまで悩みました。将軍継嗣問題で一橋慶喜を擁立した同士であることから月照を斬ることができません。
しかし、藩の日向国送りの命令を無視して逃げることもできません。西郷は月照を一人にすることができず、入水自殺をする決意を固めました。
入水した西郷と月照を助けろ!
西郷隆盛は月照と入水自殺をしますが、奇跡的に一命を取り留めました。月照は助かりませんでしたが、西郷がなぜ助かったのか。ここでは、西郷を助けた人物について取り上げます。
西郷を助けたのは福岡藩の藩士・平野国臣でした。平野は月照と西郷が入水するところを目撃します。平野は西郷らが入水を目撃すると慌てて救出しました。平野は救出してから薩摩藩に届けました。平野は尚古コスプレで笛を吹き鳴らし、尊皇攘夷をアピールして薩摩藩を去ったと言われています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は生野の乱を起こした平野国臣について取り上げました。平野国臣は大和国の天誅組の変と呼応して生野で反乱を起こした人物として知られているだけで、西郷隆盛や月照との関係はほとんど知られていませんでした。
2018年の大河ドラマ『西郷どん』で平野国臣が登場していたようですが、あまり知られていないためにドラマのどのシーンで登場していたのか記憶に残っていない読者が多いと思います。また、この記事を通して西郷隆盛と平野国臣との意外な関係を知った人も多いと思います。今後、平野国臣の功績と意外な姿について注目したいと思います。具体的には、コスプレの先駆者であることや日本で最初に「私は日本人です」と答えたことに注目したいと思います。
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