前原一誠と言えば、多くの歴史ファンや大学入試の日本史を勉強したことがある人にとって、明治維新後の不平士族の反乱「萩の乱」で有名な人物と思いつくかもしれません。2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』では佐藤隆太が前原一誠役を演じているので若干知名度が上がっているかもしれません。ここでは、前原一誠について人柄と人柄から不平士族の反乱に駆り出された経緯について取り上げます。
この記事の目次
前原一誠についておさらいをしましょう
前原一誠は1834年3月に長門国(現在の山口県)の長州藩士・佐世彦七の長男として生まれました。後に前原氏を相続し、姓を前原に変えます。前原は久坂玄瑞や高杉晋作らと吉田松陰の松下村塾に入門します。松下村塾にいたのはわずか10日でしたが、松下村塾を離れてから長崎で洋学を学びました。前原は高杉らと下関で挙兵して長州藩での主導権を奪取します。長州藩で権力を握ると倒幕に向けて動きます。1868年から始まった戊辰戦争では北越戦争に出兵しました。
明治維新後、前原は越後府判事や参議を務めました。大村益次郎の死後は兵部大輔と兼務しましたが、出仕することが少なくなります。前原は「国民皆兵」(徴兵令)に反対し、下野しました。下野してから萩へ帰り、前原は1876年に不平士族を集めて反乱を起こします。この反乱を萩の乱と言います。この反乱はすぐに鎮圧され、前原は捕えられ、処刑されました。
わずか10日、松下村塾時代の前原一誠はどんな評価だった?
前原一誠は吉田松陰の松下村塾に入門し、久坂玄瑞や高杉晋作らとともに学びます。前原は金銭的な理由でわずか10日しか松下村塾にいることができませんでした。大河ドラマなど幕末のドラマで登場したとしても取り上げられることはほとんどないと思います。ここでは、前原一誠の人柄を中心に松下村塾時代の評価について取り上げます。
最初に、吉田松陰は前原一誠を次のように評価しています。才能や知識は久坂玄瑞や高杉晋作に劣るが、誠実さなど人格では前原が久坂・高杉よりも上回ると評価したと言われています。次に、前原一誠は戊辰戦争で北越戦争での戦いが評価され、明治政府で参議を務めました。大村益次郎の後、明治政府で軍政を務めますが、徴兵令に反対して明治政府を去りました。
前原は明治政府を下野してから萩に戻り、不平士族のリーダーに担がれ、萩の乱を起こしました。萩の乱に負けて、前原は処刑されました。前原については不平士族の反乱を起こして斬首された人物として悪い評価がされています。吉田松陰が認めた人格については評価されていませんが、前原は人格面で不平士族の反乱のリーダーとして担がれた要因なのかもしれません。
「一誠」の名前の由来と、生涯貫いた「仁政」の姿勢とは
前原一誠は松下村塾に入門する前まで八十郎と名乗っていました。吉田松陰の言葉「至誠にして働かざる者、未だこれ有らざるなり」という言葉に感動し、一誠と名前を変えました。前原は松陰のもとで人に対して優しい政治(「仁政」)を学び、戊辰戦争後に越後判事に任命されると実践します。具体的には年貢の半減や頻繁に氾濫する信濃川の治水を計画しました。しかし、信濃川の治水工事については新政府の了解を得ることができませんでした。
徴兵令で木戸孝允らと対立し、前原は明治政府を去りました。前原は明治政府を去って萩に帰ると仕事をなくした武士を不憫に思うようになりました。1876年に不平士族のリーダーとして担がれ、反乱を起こします。前原はとても優しい性格で、思いやりのある人だったと言われています。反乱を起こし処刑されましたが、恩赦で従四位が贈られています。
明治政府で孤立、真面目過ぎる性格のせい?
これまで前原一誠の人柄と不平士族のリーダーに担がれた要因について取り上げました。明治政府内で徴兵令に反対して下野したことをこれまで取り上げてきました。前原一誠は仁政を学んだことから、「国民皆兵」は民を犠牲にするという理由で反対したと考えられます。
明治政府を去って萩に帰ると、かつて高杉晋作の呼びかけに応じて参加した「奇兵隊」のほとんどは士族になれず、生活の保障がなくなりました。長州藩の頃から武士で、明治維新で士族担った人は給与の支払いを打ち切られ、生活ができなくなりました。前原は真面目な性格で、士族の不遇を見ていられなくなりました。このような士族に担ぎ出され、萩の乱を起こしました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は前原一誠について取り上げました。前原一誠は反乱を起こし処刑されたという評価だけで、人柄などほとんど知られていませんでしたが、この記事を通して前原の人柄と不平士族による反乱「萩の乱」リーダーに担ぎ出された経緯について知ることができました。今後、不平士族のリーダー担ぎ出された人物と人柄の関係について注目したいと思います。
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