夏・殷・周・秦・漢…。
中国の歴代王朝にはそれぞれ名前が付いていますよね。その王朝の名前を国号と言います。中国のどの王朝にも国号が定められているのですが、その国号の中でも「漢民族」「漢方薬」なんていう言葉の由来にもなっている漢王朝の国号には一体どのような意味や由来があるのでしょうか。今回は漢王朝の「漢」という国号についてご紹介したいと思います。
この記事の目次
国号は基本的に地名に由来する
国号には必ず由来があり、基本的には国をおこした人物に縁のある地域の名前がとられます。中には国をおこした人物が所属した部族の名前や元々持っていた称号、縁起の良い漢字などが選ばれることもありますが、やはり地名由来のものが多いです。夏や殷、秦、そして漢王朝も地名に由来する国号が定められています。その他、三国時代の王朝である魏・蜀・呉や晋、遼、宋などの王朝も地名に由来する国号がとられていますよ。
なんで「漢」?「沛」や「宋」じゃダメだったの?
漢王朝が「漢」を国号に定めたのはなぜでしょうか。漢の高祖・劉邦は現在の江蘇省徐州市にあった沛県の出身です。そのため、国号も「沛」にすればよかったのではないでしょうか。もしくは、「沛」は元々春秋戦国時代には宋の領土でしたから国号を「宋」とするのも1つの手だったのではないでしょうか。しかし、劉邦は自らの出身地である沛県に由来する国号をつけませんでした。劉邦が定めた「漢」という国号は現在の陝西省漢中市あたりにあった漢中という地に由来するものです。
実はこの漢中という場所はライバルである項羽によって劉邦が封じられた土地。ぶっちゃけていえば劉邦が屈辱を味わった場所です。それなのに、なぜ劉邦は国号を「漢」に定めたのでしょうか。そこには男・劉邦の意地と誇りがあったのです。
漢中での絶望と再燃した闘志
秦の都・咸陽入りを目指した劉邦一行と項羽一行。その当時、劉邦は項羽の子分のようなものでしたし、距離的にも戦力的にも項羽軍の方が劉邦軍よりも先に咸陽入りを果たすと思われていました。ところが、先に咸陽入りを果たしたのは劉邦。しかも、劉邦は咸陽を締め切って項羽が入って来ることができないようにするなどして項羽の怒りを更に煽ってしまいます。圧倒的戦力を誇る項羽軍がいよいよ劉邦を討たんと咸陽に攻め入ろうとするとビビった劉邦は和議を打診。
結果、劉邦は命こそ長らえたものの、咸陽から辺境の地・漢中に飛ばされてしまうことに。この出来事が「左遷」という言葉の由来になったと言われています。こうして漢中王となった劉邦や劉邦の配下たちは正直絶望の余りお通夜ムード。「東に帰りたい…」と泣き逃亡してしまう者も続出しました。
しかし、そんな劉邦陣営にある男がやってきました。その男の名は韓信です。韓信は「東に帰りたいという兵たちの強い気持ちがあれば必ず東に帰れる」と劉邦を説得。劉邦をはじめとする人々の心に再び闘志がわき上がってきたのでした。
漢中王・劉邦の意地と誇り
項羽への反撃の機会は意外と早く訪れました。わがまま放題の項羽に反旗を翻す者が続出したのです。劉邦もすぐに兵を起こし、仲間を増やしながら東へ東へと進みました。強敵である項羽はなかなか倒せませんでしたが、優秀な部下の言葉に素直に耳を傾けていた劉邦に勝利の追い風が吹き始めます。
そんな劉邦軍は垓下の戦いでついに項羽軍を破り、天下統一を果たして皇帝に即位。その際に国号を定めることになったのですが、劉邦が選んだのは漢中の「漢」でした。劉邦は漢中という辺境の地で強敵である項羽とはじめてまともに対峙する決意をしたという意地と漢中での屈辱をついに晴らしたという誇りを「漢」という国号に込めたのでしょう。
「漢」にはこんな素敵も意味も
劉邦の熱い想いが込められている「漢」ですが、実は「漢」という字は天の川を指す言葉でもあります。もしかすると劉邦は天の川にまで届くほどその名を轟かせたいという願いも込めて「漢」という国号を選んだのかもしれませんね。
三国志ライターchopsticksの独り言
中国の代名詞ともいえる「漢」という国号には劉邦の並々ならぬ想いが込められていたのでしょう。そのため、他の王朝の国号と比べても「漢」は圧倒的な存在感を誇っているのかもしれませんね。
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