初平元年(190年)、華北一帯の英雄軍閥が一斉に董卓追討の旗を掲げます。兵力二十万とも呼ばれる「反董卓連合」です。対する相国の董卓は献帝を擁して漢の官軍を掌握し、兵力二十万以上。天下分け目の大戦となりますが、勝敗は決せぬまま、反董卓連合は一年後に瓦解します。
強力なリーダーシップを発揮できる大将がいなかったために連合軍には連帯感というものが欠けていました。では、どうすれば反董卓連合は董卓を討つことができたのかを推測していきたいと思います。
曹操が大将となる
戦の機微に長けている曹操が発言権と指揮権を持っていれば、反董卓連合が勝つ可能性はとても高くなっていたでしょう。このとき強い権力を有していたのは袁紹です。
袁紹の思考は、悪逆非道を尽くす董卓は包囲しておけばいずれ内側から崩れるという予測を持っていたと思います。そのため反董卓連合は持久戦を選択し、日々、宴会に明け狂うようになっていました。小田原城を包囲した豊臣秀吉の軍のような感じだったのではないでしょうか。
勝敗を決するタイミング
仮に曹操が大将を務めていたとはいえ、精鋭を誇る関西の兵力にそう簡単に勝てるはずもありません。
董卓軍には武勇が鳴り響いている呂布や華雄などの猛将が揃っていましたし、指示系統も統一されています。反董卓連合が攻めるのならばどこのタイミングが一番適切だったのでしょうか。それは間違いなく董卓の洛陽から長安に遷都する行軍の後背を突くときでしょう。
袁術と孫堅の兵が、猛将・華雄を討った場面があります。陽人の戦いと呼ばれていますが、この敗戦で董卓は遷都を決めたと云われています。洛陽から長安まで約300㎞。恐ろしほどの長旅です。しかも二十万以上の兵力の他に洛陽の民衆も移動させました。果たしてどれほどの月日がかかったのでしょうか。軍は東西に伸びています。願ってもいない千載一遇のチャンスです。
好機を逃す
曹操は当然のようにこの好機を逃さぬよう、追撃の要請を袁紹にしますが、袁紹はじめ諸侯はなかなか重い腰をあげません。いたずらに兵を失うことを恐れていたためです。洛陽を放棄した董卓に対して、勝ったという感触があったのかもしれません。曹操は独断で董卓を追撃しますが、兵力が圧倒的不足しており、さらに董卓軍の将・徐栄らの伏兵に遭って敗北します。
もし曹操が反董卓連合の大将であり、ここで将兵を統括して長安を突いていたら董卓軍は甚大な被害をこうむっていたでしょう。袁紹に優柔不断な将というレッテルを貼ったのはこのときです。おかげで董卓は二十万の兵を無傷で長安に動かし、さらに朝廷を掌握し、太師に就きます。
袁術・孫堅の援護があれば
曹操が独断で追撃したときに行動を共にしたのは、鮑信と張邈の配下です。ちなみに曹操は兵を五千ほどしか有しておらずに張邈から借りていたと云われています。このときに強硬派の袁術や孫堅が協力していたら、戦の流れは変わっていたかもしれません。しかし、反董卓連合は一か所に集まっていたわけではなく、
袁術軍は南から董卓にプレッシャーをかけていたので、東の陳留にいた曹操とは息が合わなかったのでしょう。曹操の敗北の後に洛陽を占拠したのが袁術です。もしこのとき曹操と袁術がタッグを組めたら董卓軍への追撃はもっと効果的なものになっていたはずです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
名士が強力な発言権を持っていた時代です。キャリアの薄い曹操が大将になることはまず無理な話です。もし張邈なり袁紹なりが曹操の力量を認めて指揮権を委任していたら戦は大きく変わっていたかもしれません。
プライドの高い袁紹がそれを認めるはずもありませんが・・・。少なくとも曹操が袁術とだけはもう少し連携を濃くしておけば、戦の流れも変わったはずなのにと残念に感じてしまいます。
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