広告

山内容堂と坂本龍馬、理想の上司と部下の[真実]

2024年5月21日


山内容堂

 

幕末では坂本龍馬(さかもとりょうま)が一番人気のある歴史上の人物の一人で、これまでに何回か大河ドラマになっています。坂本龍馬は土佐藩の元藩士で、土佐藩の藩主は山内容堂(やまのうちようどう)です。山内容堂も雄藩として台頭した土佐藩の藩主で、山内容堂は伊達宗城(だてむねなり)島津斉彬(しまづなりあきら)松平春嶽(まつだいらしゅんがく)四賢候(しけんこう)として呼ばれるようになりました。

 

 

日本初の株式会社した坂本龍馬

 

 

この記事では坂本龍馬と土佐藩の藩主である山内容堂との関係、龍馬の船中八策(せんちゅうはっさく)を受け入れた真相について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



尊王志士だった坂本龍馬と佐幕派の山内容堂

坂本龍馬

 

藩主となった山内容堂(当時、豊信(とよのぶ))は藩政改革に着手しました。有能な人材を登用しました。登用された人材の中では吉田東洋(よしだとうよう)が有名です。吉田東洋は殖産興業(しょくさんこうぎょう)・軍制改革・開国貿易など富国強兵を目的とした改革を進めます。容堂は四賢候の一人として幕政改革にも関わりました。13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)は病弱で世継ぎが見込めないことから、将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)で容堂は松平春嶽・伊達宗城・島津斉彬らと徳川(一橋)慶喜(よしのぶ)を擁立しました。一方で、井伊直弼(いいなおすけ)は血筋を重んじて徳川慶福(とくがわよしとみ)を推しました。

 

島津斉彬が亡くなり悲しむ西郷隆盛

 

徳川慶喜を推していた阿部正弘(あべまさひろ)や島津斉彬が死亡しました。1858年に井伊直弼が大老となり、徳川慶福が時代将軍となることが決まりました。山内容堂は幕府に隠居願いを出しました。そして、井伊直弼による安政の大獄が始まりました。安政の大獄により、徳川慶喜をはじめ、松平春嶽・伊達宗城・山内容堂らに謹慎が命じられました。容堂が謹慎しているときに尊王攘夷派(そんのうじょうい)の運動が活発化し、容堂が抜擢した吉田東洋が土佐勤王党によって暗殺されました。

闇討ち

 

容堂が政治に復帰すると、土佐勤王党の弾圧を始めました。土佐勤王党の党首である武市半平太(たけちはんぺいた)に切腹を命じました。

 

武市半平太

 

 

当時、坂本龍馬は土佐勤王党に加わっていましたが、弾圧される前に土佐藩を脱藩していたため処分を受けませんでした。

 

 

 

 

自由奔放な龍馬をあえて放任していた山内容堂

ビジネスマンの坂本龍馬

 

土佐藩は初代藩主山内一豊の代から上士(じょうし)下士(かし)という身分に分かれていました。上士は山内一豊寄りの武士で、下士は関ケ原の戦いで負けた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の頃から仕えていた武士です。土佐藩で有名な坂本龍馬は下士ですが、質屋など様々な商売で財を成した豪商で比較的裕福な家庭でした。江戸時代も末期になると、上士と下士の身分制度の枠組みから抜け出そうとする若者が現れます。

 

人を助ける坂本龍馬

 

 

その若者とは坂本龍馬と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)らで土佐藩を脱藩しました。脱藩をすれば死罪になりますが、坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩にとって重要人物だったことから死罪は免れました。

 

 

龍馬の「船中八策」を受け入れた山内容堂の真意

 

山内容堂は藩主を継いだ経緯で幕府に恩義を感じていたことから、公武合体を模索していました。幕府を倒そうとする薩長とは反対の立場でした。坂本龍馬は政治方針として船中八策を示しました。

 

船中八策とは公議政体論のもとで大政奉還・上下両院の設置による議会政治有能な人材の政治への登用・不平等条約の改定・憲法制定など8項目からなります。この龍馬の政治方針は15代将軍の徳川慶喜に大政奉還を建白することになりました。公武合体を模索していた山内容堂にとって徳川慶喜を新政府のトップにすることができそうなので、坂本龍馬の船中八策を受け入れることができたと考えられます。

 

 

龍馬死す!その後の山内容堂

亡くなる坂本龍馬

 

1867年、大政奉還が成立して1か月後に暗殺されました。坂本龍馬が暗殺されたため、土佐藩は主導権を握ることができませんでした。小御所会議において薩長は徳川慶喜を排除する動きを見せます。この会議において大政奉還した徳川慶喜の官職である内大臣の辞職と徳川家領の減封が決定されました。山内容堂にとって無念の思いで苦渋を味わい、酒におぼれることになりました。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は山内容堂と坂本龍馬との関係と大政奉還後の山内容堂について取り上げました。山内容堂と坂本龍馬は理想の上司と部下だったのかについて、脱藩したことに対する罪を免じていることから龍馬の才能を認めていたと考えられます。容堂はやけ酒の印象を受けますが、適材適所で人材を登用する才能があったのかもしれません。

 

▼こちらもどうぞ

坂本龍馬の死因は?暗殺の黒幕は分かったの?

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
オフィス樋口

オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

-外部配信