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頑固で有能な島津斉興![子にぶつけた憎しみ]


 

NHK大河ドラマ西郷どんでは、島津斉彬(しまづなりあきら)の藩主就任を妨害し藩主に就任した後も斉彬毒殺を試みるなど、極悪ヒールと化している10代藩主、島津斉興(しまづなりおき)

 

せごどんでは鹿賀丈史(かがたけし)さんが演じていますが、ドラマを見る限り斉彬の蘭癖を理由に寵愛する側室、お由羅(ゆら)の方との間の子である久光を藩主に就かせようと画策している陰険ジジイに見えますが、本当の所はどうだったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1791年9代藩主、島津斉宣の長男として生まれる

 

島津斉興は、1791年、9代藩主である島津斉宣(しまづなりのぶ)の嫡男として生まれました。斉興が生まれた頃、薩摩藩は8代藩主の島津重豪(しまづしげひで)蘭癖(らんぺき)のせいで、500万両の負債を背負い倒産寸前という状態にありました。一応、重豪の為に弁護しますと、薩摩藩は島津重豪が藩主になる前から、幕府の命令で木曽(きそ)川、長良川、揖斐(いび)川などの三河の暴れ川の工事を請け負い全てボランティアで大勢の人夫と金を投入していました。

 

幕府は南の外様大名の薩摩が大きくならないように、事あるたびに圧力を掛け血も涙もない搾取をしていたわけです。これによりできた借金は123万両でしたが、重豪は半端な借財を嫌い自らのオランダ学狂いで、さらに377万両借金を増やし500万両というキリの良い数字にしたところで、全く首が回らなくなり、とうとう「ゴメンもう無理だわ!」と息子の斉宣に家督を譲ります。それが、1787年で斉興の産まれる4年前の事でした。

 

 

父が近思録崩れで隠居させられ斉興は藩主になる

 

家督を譲られた斉宣ですが、この後に及んで権力亡者の父、重豪は後見役として政治に一々口を挟みますし、政治は重豪のお気に入りが家老として居座り、また、隠居している重豪の屋敷の経費、大勢いる側室の経費で火の車でした。

 

たまりかねた斉宣は樺山久言(かばやまひさたか)秩父季保(ちちぶすえやす)を登用して緊縮財政に舵を切り重豪が寵愛した家老連中をクビに追い込みました。さらに、重豪が行った蘭学関係の施設も閉鎖していきました。同時に収益アップを目指して琉球との密貿易を拡大しようとしますが重豪は自分の娘の茂姫を将軍家斉の正室に嫁がせて権勢を伸ばすつもりなので琉球との密貿易のようなリスキーな事に神経を尖らせます。

 

 

 

こうして、1809年、重豪の逆襲が開始され、斉宣は強制隠居させられ、樺山久言、秩父季保は処分されました、これを近思録崩(きんしろくくず)れと言います。我が子を隠居させた重豪は、今度は18歳になった孫の斉興を10代藩主とし、再び、その後見人になりました。

 

 

祖父が可愛がる我が子斉彬をどんどん嫌いになる

 

1809年に藩主になった斉興は正室として、鳥取藩主の池田治道(いけだはるみち)の娘の弥姫(いやひめ)を娶ります。やがて、二人の間には待望の長男の斉彬(なりあきら)が誕生しました。こちらの弥姫は賢夫人の誉れ高い人で、自身が産んだ3名の子供を自ら育てて、乳母を使わず、初等教育などもこなすなど当時としては、かなりの才女でした。

 

そのお陰もあり、成長した二人の息子と一人の娘は、いずれも英才の誉れ高く、特に斉彬は「二つびんた(頭脳が二つある)」と言われた聡明な少年に育ちます。当時、藩主の正室と後継ぎは人質の為に江戸に留めて置かれました。藩主は参勤交代のたびに、江戸と国元を往来するのですが、斉興が聡明な息子を自慢する前に、曾孫(ひまご)を溺愛した人物がいました重豪です。

 

 

「この曾孫は賢い、わしの幼い頃に瓜二つではないか?こやつならわしの蘭学の夢を叶えてくれるに相違あるまい・・ぐふふ・・立派な蘭学オタクにしてやろうぞ」

 

重豪はこの曾孫を伴いシーボルトと会見したりオランダの品々を見せたり一緒に風呂に入るなど、大変な溺愛ぶりを見せます。また、斉彬も隔世遺伝なのか、重豪に負けず劣らずの蘭学オタクに成長してしまうのです。

 

 

 

藩主になったものの形ばかりの傀儡(かいらい)、さらに生まれた長男を重豪に取られた島津斉興は、腹立たしいやら悔しいやらで、日に日に祖父に似てくる斉彬さへ憎らしく思えてきたのです。そんな中、斉興には、側室のお由羅の方との間に庶子である久光(ひさみつ)が生まれます。長男を重豪に取られた分、斉興は久光に愛情を注ぎ込みました。

 

 

 

そんな中、江戸では斉彬が元服を迎えます、すると重豪は斉興に対して、

 

「おい、いつまで藩主をやっておるか?そろそろ斉彬に家督を譲れ」そう言わんばかりの対応をしてきます。

 

「あはは、ご隠居様、それはそのうちに必ずぅ・・」

 

重豪に逆らえない斉興は、絶対に祖父似の斉彬に家督は譲るまいと暗い決意を固めていくのです。

 

 

憎んだ祖父重豪死去!大赤字の薩摩藩を立て直す

 

永遠に生きるかと思われた島津重豪ですが、1833年に89歳で大往生します。藩主になってから24年、やっと自分の手で政治を行えるようになった斉興は、引き続き家老に財政官僚の調所広郷(ずしょひろさと)を登用して藩政改革を開始しました。

 

調所広郷の改革は強引で商人を脅迫して、500万両を無利子250年返済という法外に激安な返済方法にまとめてしまいます。これだと年間二万両の返済で済むという事ですが、これまでは利払いだけで何十万両もあったのですから、滅茶苦茶であり商人は半分は踏み倒されたも同然だと思った事でしょうね。

 

もちろん、こればかりではなく調所は琉球との密貿易を拡大し重豪時代の蘭学施設を取り壊し、行政改革、内政改革を断行していき1840年には、逆に200万両の余剰金が出来るようになります。しかし、短期間での収益の倍増はブラックゾーンに足を突っ込む事でした。自分達が密貿易をするばかりか、許可を与えた商人にも密貿易を斡旋し、奄美大島(あまみおおしま)等では、黒糖の収奪が激しくなり黒糖地獄が起こります。

 

 

ここを幕府に突かれると、藩が吹っ飛びかねないリスキーマックスのヤバい金を積み上げた財政再建だったわけです。ここから考えると、小者と見られている島津斉興も度胸はかなりのモノ流石は島津の殿様だと感心します。

 

 

仁義なき親子バトルお由羅騒動が勃発

 

調所広郷の手段を選ばないダークな金で財政再建が出来た斉興には、再び頭の痛い問題が浮上してきました。江戸で放置プレイ絶賛実行中の後継ぎ、斉彬の問題です。

 

本当は、斉彬を廃嫡(はいちゃく)して庶子の久光を藩主にしたいではありますが、斉彬は藩主になる前提で一橋徳川家から正室恒姫を貰っています。もう廃嫡出来ないので残る方法は、とにかく斉彬より長生きし、体の弱い斉彬の死を待って、久光に繋ぐしかありません。

 

 

こうして、40過ぎても後継ぎのままとされた斉彬は行動を起こします。老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)とタッグを組み、調所広郷が派手にやった琉球との密貿易をネタに斉興に圧力をかけて隠居に追い込もうというのです。

 

斉彬の、こういうところも斉興の神経を逆なでします。そとづらが良く交友関係が広いのも祖父の重豪にそっくりだからです。しかし、密貿易情報のリークは責任者の調所広郷が江戸で阿部正弘の尋問を受けた直後、急死した事により真相は闇に葬られます。真偽は不詳ですが、斉興を庇い自殺した線が濃厚でした。

 

 

次に起きたのがお由羅騒動でした。斉興が溺愛していた久光は、斉彬程ではないとはいえ聡明な人でした。ただ、母のお由羅の方が江戸の町人の娘であったので出自において、正室の子である斉彬には、まるで及びませんでした。

 

もっとも、それでも藩主である斉興にくっついている家老衆のような既得権益者は島津久光を支持します。勢い、既得権益に預かれない斉興から遠い派閥や下級武士は、島津斉彬を待望するようになります。ここで密貿易リーク作戦が頓挫した反久光派が起こしたのがお由羅騒動でした。久光とお由羅を亡き者にしようとした計画は途中で漏れ斉興の逆鱗(げきりん)に触れます。かくして、赤山靱負(あかやまゆきえ)など13名が切腹、50名以上が処断される大騒動になりました。これで、斉彬は万事休すと思われましたが、脱藩者が出た事で騒動は他藩に漏れます。

 

 

再び、老中阿部正弘が動きお由羅騒動を藩主斉興の監督不行き届きとして将軍家慶(いえよし)に報告したのです。

 

家慶「斉興も、もうよい年であるから世子に家督を譲り隠居せよ」

 

いかに頑固な斉興でも将軍の命令には逆らえませんでした。渋々、斉彬に家督を譲り隠居します、1851年の事です。

 

 

 

殖産興業にも国防にも理解のあった斉興

 

こうして、42年にわたり藩主の地位にあった斉興は隠居します。しかし、最初の24年は祖父の傀儡でしたから実質の藩主の期間は18年でした。ようやく藩の経営が黒字になったところで、大嫌いな長男、斉彬に藩主の地位を奪われるとは、さぞ悔しかった事でしょう。

 

事実、斉興は40を過ぎた斉彬を後見すると言いだし半年粘っています。40歳の男に後見人が必要なわけがないのですが、すごい顔の皮です祖父の重豪と同じく権力への執念は強かったのです。また、斉興は外国船の出没で騒がしくなった海岸線の防衛に備える為に、1847年には根占(ねじめ)砲台を建設していますし、翌1848年には、滝之上火薬製作所の火薬の製法を洋式に変更しました。

 

1850年から1851年にかけては、天保山(てんぽうざん)砲台を完成させ、さらに、内之浦(うちのうら)垂水(たるみず)、桜島、出水(いでみず)阿久根(あくね)串木野(くしきの)久志(くし)秋目(あきめ)ほか各地に砲台を建設していました。殖産興業では、斉興はガラスの国内生産に関心があり、江戸から職人を招いてガラスを研究させ後の薩摩切子(さつまきりこ)へと繋がっています。息子の斉彬が集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)等を色々大々的にやったので地味になっているだけで、斉興は決して、内向的で借金ばかりを返していたケチな陰険ジジイでは無かったようなのです。

 

 

斉彬を毒殺したのは斉興?

 

1858年、8月24日、藩主になって7年目の島津斉彬は天保山で軍事演習中に釣った魚を捌いて食べた後に体調を崩し、そのまま床について急死しました。この点については古くから毒殺が疑われていて、斉彬の子供達が幼少で次々に病死したのと併せて、島津斉彬の派手な行動を嫌った斉興が毒殺したというような説があるようです。

 

真相は誰にも分かりませんが、すでに斉彬は自分の死後には、久光の息子の忠義(ただよし)を藩主にすると遺言していましたし、そうなれば、後見に久光が座るのは間違いなく斉興の願いは叶います。なので急いで斉彬を毒殺する意味があったかなとは思います。もっとも、斉彬の藩兵を率いての京都への上洛計画を知っていて、それを止める為に斉彬を毒殺したというのなら、可能性はあるかも知れません。その後も、薩摩藩は大老井伊直弼(いいなおすけ)を恐れる事、ひとかたではなく、西郷どんを頼り薩摩に入った(きんのう)僧の月照(げっしょう)(かくま)えないとして見殺しにしているからです。

 

 

斉興は、斉彬の死後、忠徳(ただのり)(後の忠義)が若年である事を理由に後見になり腹いせのように、金がかかる集成館事業などを一時停止などしましたが、1859年の9月12日に死去します、67歳、死因は病死のようです。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

島津斉彬と島津斉興は、お互いを嫌い罵りの言葉を吐いている事が文書から分かっています。その行き違いは斉興が、祖父の重豪を嫌い斉彬は逆に懐いた辺りから始まり斉興に庶子久光が出来た事で、家督を巡る問題へ転化しました。

 

さらにその後は、重豪の借金問題と斉彬の蘭癖問題が絡んできて、いよいよ二人の関係修復は不可能になっていきます。自分の寵臣の調所広郷を斉彬の密貿易情報のリークで失う羽目になったのも斉彬への憎悪を掻き立てた事でしょう。

 

ただ、書いてきた通り斉興は決して無能な藩主ではありませんでした。彼の借金返済と余剰金の蓄積がなければ、斉彬の多くの事業は不可能です。極論すれば、元祖蘭癖大名の島津重豪より余程立派な業績を残しています。二人が、一度、じっくりとお互いの考えを話したなら、地頭の良い二人の事ですから、案外和解出来たかも知れません。でも、かたや薩摩藩の事、かたや日本全体の事と、絶望的に向いている方向が違う二人ですから和解しても手を取り合うのは無理だったのかも知れませんね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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