安史の乱がおこり、乱の源は楊氏一族にあると考えた臣下たちによって殺されてしまいましたが、玄宗と楊貴妃の悲恋物語は後に詩人の白居易の作品「長恨歌」で美しく歌われ、現在でも人々の心をとらえ続けています。その玄宗と楊貴妃がいつも秋から春にかけて過ごし愛を育んだ温泉地「華清池」に、私ことよかミカン、行ったことがありますので、どんな場所だったかご紹介させて頂きます。
華清池の概要
華清池は、かつて唐の都であった長安、現在の西安市街から、東へ30キロあまり行った驪山にあります。秦の始皇帝のお墓の一部である兵馬俑から近いので、西安観光をされる方は郊外観光で兵馬俑とセットで訪れると便利かと思います。
温泉地として約3000年もの歴史を持ち、周の時代には驪宮が建てられ、秦の始皇帝はここに驪山湯を設け、漢、隋の時代にも離宮が置かれていました。
唐の玄宗もここに離宮を建て、華清宮と呼んでいました。楊貴妃が貴妃の位に登ってからは、玄宗と楊貴妃は毎年10月から春までここで過ごし、宴に明け暮れ愛を育みました。楊貴妃が亡くなってから50年後に白居易が書いた「長恨歌」には、若く美しい彼女が皇帝にみそめられてまもない頃の描写として「春寒くして浴を賜う華清の池 温泉 水滑らかにして凝脂を洗う」と歌われています。凝脂とは白く美しい肌のことです。
華清池の印象
※地図はイメージです。
現在の華清池は庭園のように整備されており、大きな湖の周りに感じのいい建物がいくつも建っています。私が行った時には湖には蓮の葉が浮かんでいて、赤い小さい鯉が泳いでおり、観光に来た子供たちから餌をもらっていました。
門の側から見ると手前が池、後方が山になっていて、風水的に理想的な立地であるように思えます。山の斜面にも点々と建物があり、階段を上って見ることができます。唐代の建物の台座が残っている場所や、玄宗や楊貴妃が浸かったという浴槽を見られる建物もありました。
楊貴妃専用の浴槽であったという海棠湯は、お花の形をしたかわいらしい浴槽で、ひとり入ったらいっぱいになってしまいそうな、想像を絶する小ささでした。サイズは3.6m×2.9mだそうです。皇帝の寵愛を一身にうけても時には一人でこういうこぢんまりしたお風呂に入っていたのね、と思うと、楊貴妃に親近感がわきました。お風呂の名前の由来になった海棠は、桃や桜のような雰囲気のかわいいお花です。
他に、10.6m×6mの蓮華湯や18.2m×5mの星辰湯がありますが、こちらは玄宗皇帝が「くるしゅうない、みなのものもいっしょに入るがよい」とでも言いながら楽しんでいたのでしょうか。楊貴妃が他の女性たちとキャアキャア言いながら浴槽に入ってきたら、玄宗さん、楽しかったことでしょうね。
蒋介石(しょうかいせき)が襲撃された時の弾痕
華清池を玄宗と楊貴妃のロマンスの現場としか思っていなかった私にとっては意外なスポットが、華清池にありました。池の後方の斜面を少し登ったところにある「五間庁」という建物、1936年12月12日に起こった「西安事件」の現場なのだそうです。
当時、中国国内では中央軍と共産軍の内戦があり、中央軍のボスの蒋介石が部下達に早く共産軍をやっつけろとはっぱをかけるために西安にやって来て、この華清池の五間庁に宿泊していました。蒋介石の指示下で共産軍との戦いの指揮をとる立場にあった張学良は、国内が一致団結して抗日(当時、日本が中国にさまざまな干渉をしていたため抗日運動が盛んだった)にあたるべきだと考えていたため、五間庁に宿泊中の蒋介石を楊虎城らとともに拉致・監禁し、後に蒋介石と共産軍の周恩来らとを話し合わせ、内戦の停止など八項目の合意が成立しました。
この西安事件、張学良の親衛隊120名と警備兵との銃撃戦になり、五間庁にはその時の弾痕が残っており、見ることができます。事件当日、49歳だった蒋介石は朝の起き抜けに襲撃を受け、入れ歯をつけるいとまもなく塀を乗り越えて逃げ、裏山をよじ登り、12月の寒い山の中で岩間に落っこちたりしながら一昼夜を過ごし、事件発生翌日の朝に拘束されたそうです。事件で甥御さんなど身近な方が亡くなっています。そんな大変なことが、蓮の花咲く美しい華清池であったんですね。
三国志ライター よかミカンの独り言
唐代のロマンスと近代の緊迫した事件の現場、華清池。今では観光客で賑わい、お花の形の台から美人の湯が沸いている場所では女性たちがキャアキャア言いながらお湯を触っています。
私は気付かなかったのですが、周りには有料の入浴施設もあるそうですので、お時間がありましたら楊貴妃の浸かったお湯に入りながら歴史に思いを馳せてみられるのも一興ではないでしょうか。私もこんど西安に行く機会があったらぜひ入りたいと思います!
▼こちらもどうぞ
劉備が宴会していた襄陽(じょうよう)ってこんな街!よかミカンが行ってみた