西郷隆盛(さいごうたかもり)というと、皆さんは何を連想しますか?
恐らく上野公園にある、着流しに犬を連れた西郷像を連想するのではないでしょうか?明治維新に大きな功績を立てた西郷隆盛ですが、ではどうして上野公園に西郷どんの銅像が立っているのでしょうか?今回は意外と知らない上野の西郷像の秘密とそのアクセス方法を解説します。
この記事の目次
西郷隆盛像(西郷どん)が上野恩賜公園にある哀しい理由
では、どうして西郷像が上野恩賜公園にあるのかを説明しましょう。幕末の頃、上野恩賜公園は、寛永寺という徳川家の菩提寺でした。この寛永寺には、大阪城から戦に負けて江戸に逃げてきた徳川幕府の最後の将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が自主的に蟄居謹慎していました。
平たく言うと、「私は赦しがあるまで寺から出ません」と降伏し、新政府軍の命令を聞きますという態度を取ったのです。
しかし、慶喜はそうでも、血気盛んな一部の幕臣は「慶喜公の助命が出来ない限り解散できない」と降伏せずに彰義隊(しょうぎたい)という武力組織を造って武装し、警護の名目で慶喜がいる寛永寺に立て籠もったのです。結局、1868年4月11日に西郷どんと幕臣の勝海舟(かつ・かいしゅう)が会談して、慶喜の助命が認められ、慶喜は寛永寺を出て、水戸に退去しましたが、彰義隊は、そのまま寛永寺に残り各地から脱藩した藩士や博徒などを吸収、最盛期には4000人という人数になり「薩摩・長州と一戦して雌雄を決せん」という不穏な態度を取ります。
勝海舟は、江戸を無事に新政府に明け渡すと西郷どんと約束した手前、彰義隊を放置できず武装解除するように命じますが、彰義隊は聞きませんでした。こうして新政府軍でも、西郷は勝に騙されたという声が大きくなり、西郷どんは、長州の大村益次郎(おおむら・ますじろう)と指揮官を交代させられてしまいます。
大村は武断派でした、5月15日彰義隊との戦争に入り、佐賀藩から借りた最新鋭のアームストロング砲を、大量に撃ち込み、半日で彰義隊を壊滅させるのです。この時、西郷どんは彰義隊を解散できなかった責任を取り、自ら薩摩兵を率いて黒門口から突撃し、彰義隊の防備を破ると、彰義隊は寛永寺本堂に撤退していき、夕方5時には全滅しました。
話を戻しますが、西郷像が上野公園に立っている理由は、ここで、西郷隆盛が薩摩藩兵をひきいて、彰義隊を破る事に手柄を立てたからというのが大きな理由なのです。でも、西郷どんは、この戦争に乗り気ではなかったようで、そう考えると、戦勝記念で上野に立つ西郷像は悲しいですね。
西郷隆盛銅像の特徴
では、西郷隆盛銅像の特徴は、どんな所にあるのでしょうか?
まず、西郷像ですが、1898年、明治31年に宮内省からの下賜金500円を元手に全国25000人から寄付を集めて建立され、制作は日本の著名な彫刻家の高村光雲という傑作でした。
西郷像の特徴は、大きく2つあります、第1には正面から見ると顔が大きく見えて不格好になっている事です。これはワザとで、下から仰ぎ見ると均整の取れた姿になるからです。ミケランジェロのダビデ像も、同じ理屈で正面から見ると、頭がやや大きく不格好なのですが、下から眺めると、非常に均整が取れた肉体に見えます。
もう一つの特徴は銅像なのに、着流し姿で犬を散歩させている点です。当時は(今もですが)銅像は盛装で制作されるものなので、着流しで犬を連れているのは、とっても斬新でした。しかし、着流しの銅像は一部の人に衝撃を与えました。特に、西郷どんの正夫人の西郷糸さんは、除幕式で「ウチの人はあんなではない」と言ったそうですがこれは、旦那様は人前に着流しで現れるような不作法な人ではないという意味があったという事です。
しかし、着流しの西郷像は、彫刻家の高村光雲のアイデアではありません。西郷どんの従兄弟にあたる大山巌(おおやまいわお)が、イタリアの英雄ガリバルディの銅像がシャツ姿である事にヒントを得て、西郷の本質は厳めしい軍服姿よりも、着流しで兎狩りをする飾り気がない所にあるとして、敢えてそうしたのだそうです。また、もう一つの理由には、明治維新の功労者とはいえ、天皇に背いた反逆者を、あまりカッコよくすると反政府運動を引き起こす種になりかねないとして、あえて、間抜けで平凡な人畜無害な姿にしたというような政治的な理由もあったそうです。
今から考えると、兎狩りに向かう犬を連れた西郷像は親しみやすく、日本で最も有名な銅像になりました。大山の狙いは、見事に的中したと言えるのではないでしょうか?
何で西郷隆盛像に犬がいるの?
上野の西郷像には、もうひとつ謎があります。それは、どうして西郷どんが犬を連れているかという事です。実は、西郷どんは、かなりの犬好きだったと言われています。それも、ちょっと異常とも思える程の愛犬家で、自宅には、狩猟用の犬を数匹飼い、庭ではなく室内飼いをしたので部屋はすごく汚かったという証言があります。
また、愛犬には人が食べるのも贅沢な鰻丼や生卵を餌に混ぜて与え中には肥満して、狩りには役に立たないような犬もいたとかそして、西郷どんは、どこに行くにも犬を連れていき、遊郭に上がっても犬も一緒に座敷に上げて、いつも上機嫌に犬に話しかけていたそのような芸者の証言もあるようです。
西郷どんは肥満を解消する目的で、薩摩犬を連れて、まだ緑が多く残る東京で兎狩りに汗を流していました。ちなみに、西郷像の隣の犬は、ツンという名前だそうです。ただ、西郷どんが犬を偏愛していたのは、狩猟目的だけではなく明治政府に入り、政治の理想と現実のギャップに悩み、知人に裏切られるような経験が続いて人間不信に陥り、信じられるのは犬だけだと、ふさぎ込んだ結果だという話もあります。
上野公園の西郷隆盛像のアクセス方法(行き方)
そんなちょっと悲しい歴史的な背景を持つ上野公園の西郷隆盛像へのアクセス方法は、JR東京メトロの上野駅から徒歩2分、または、都営地下鉄上野御徒町駅から徒歩5分、京成電鉄京成上野駅から徒歩1分などアクセス方法があります。上野公園は、春は桜の名所でもあり、美術館やパンダで有名な上野動物園もある、日本でも有数の観光スポットなので、銅像を眺めた後も楽しめる場所が一杯です。
※銅像は、石段を登って直ぐの所にあるので、探すのは難しくないですよ。
西郷隆盛像(上野恩賜公園)案内人kawausoの独り言
上野恩賜公園に立つ、西郷像について解説してみました。実は、西郷像が上野公園に立ったのは、ここで彰義隊と西郷どんが戦い、手柄を立てたからなどは、あまり知られていない歴史だと思います。銅像が立ったもう一つの理由は、戦後、焼野原になった寛永寺の敷地が政府に接収され銅像の敷地として利用しやすかった事情もあるようです。
西郷どんの人生はたった50年に過ぎませんが、銅像一つとっても、非常にドラマチックです。もし興味がありましたら、こちらの記事もおすすめですよ。
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