日本には「桃鳩図」という国宝の絵があります。ハトをリアルに描かれているものですが、絵の作者は宋(北宋)の第8代皇帝徽宗です。徽宗は絵画・詩文等に長じた皇帝として知られていますが、その人生は波乱万丈でした。今回は徽宗の人生について解説します。
舞い降りた皇帝の椅子
徽宗の本名は、趙佶、元豊5年(1085年)に生まれました。北宋の第6代皇帝にして名君として有名な神宗です。実は徽宗は生まれた時から皇帝の地位が、約束されていたわけではありません。皇帝はお兄さんの哲宗がなっていましたが、元符3年(1100年)に哲宗は25歳の若さで亡くなりました。
哲宗には男子がいなかったので、皇位継承権は徽宗を含めた弟たちに移ることになりました。徽宗は若い時から絵画・詩文に長けていたが素行が良くないという点から、大臣たちは推薦を出しませんでした。ところが、神宗の皇后で徽宗から見れば継母に当たる向太后が推薦したので皇帝の座に就くことが出来ました。しかし、政治の勉強はしたことが無いので、しばらくは向太后が一緒について政治を行うことになりました。ところが、向太后は1年程度で亡くなりました。
新法党の大臣を起用する
徽宗が即位当初は、王安石の施行した新しい法律に賛成する「新法党」と従来の法律を守っていく「旧法党」に所属する人々が日夜争っていました。王安石はすでにこの世を去っていましたが、禍根は残っていたのです。向太后は生前、この争いを解消しようと努力しており、また大臣たちも大人しくしていました。
ところが、向太后が亡くなった途端に争いはすぐに復活したのです。徽宗は自ら政治のかじ取りを行いましたが、政治の場で行われるのはお互いの悪口だけでした。「バカ」、「ドジ」、「マヌケ」と毎日こんなことを聞かされたので、徽宗も参ってしまいました。徽宗が特に参ったと感じたのは、旧法党の関係者でした。そこで徽宗はお父さんの神宗、お兄さんの哲宗が起用していた新法党関係者を起用することに決めました。そんな時に起用された新法党関係者が蔡京です。
財政を芸術に使い民を苦しめる
蔡京は最初は旧法党の出身でしたが、新法党が勢力を得ると立場を変えていました。良く言えば目先の効く天才、悪く言えばただの小悪党です。徽宗に信頼されたのは趣味が合致していたからです。蔡京は徽宗と一緒で絵画・詩文・骨董に長けていたので、徽宗にお気に入りになるのは当たり前でした。
さらに蔡京とタッグを組んでいた宦官に童貫がいます。彼ら2人は手を組み徽宗の行う芸術・骨董品収集には湯水のように財政を使い民を苦しめました。なお余談ですが、蔡京と童貫は『水滸伝』という小説で悪役として登場します。さらにもっとも民を苦しめた遊び事が、花石綱でした。
これは石です。徽宗は芸術の中でも石を見るのが、1番好きだったのです。そのため全国から、少しでも珍しい形をしていたらすぐに回収をしていたのです。
この石の運搬作業が重労働でした。当時はトラックなんてありませんから、船・馬車・人です。しかも1回につき1000人以上が動員されたので、家の労働力が必ず奪われたので、民は苦しめられました。しかし、徽宗はそんなことはお構いなし。毎日、芸術に励んで、石を集めて庭園を造っていました。
金軍に攻められ、拉致されて生涯を終える
こんな遊び放題を続けた徽宗にもいよいよ天罰が訪れます。北宋は宣和7年(1125年)に北方の遼を新興国の金と同盟して滅ぼしました。ところが、北宋が遼の残存勢力と密通していたことが発覚しました。靖康元年(1126年)に、怒った金軍は都の開封まで南下してきました。びっくりした徽宗は謝罪と皇帝を辞めることを伝えました。この時は、金軍も怒りを収めて帰りました。
しかし帰ったら、また悪い考えが浮かんだのです。再び遼の残存勢力と手を結ぼうと考えたのです。ところがこれは、金軍の密偵にキャッチされてしまい密告されました。金軍は、「ふざけるなー!」という感じで戻ってきました。あっという間に開封は陥落して、徽宗と息子で第9代皇帝の欽宗は引きずり出されました。
この時に徽宗が大切に集めた芸術・骨董品もほとんど破壊されました。徽宗はそのまま、他の皇族と一緒に金まで拉致されました。この事件を〝靖康の変〟と言います。拉致された場所では、自給自足の生活であり皇帝の時とは一変しました。徽宗は紹興5年(1135年)に、さびしくこの世を去りました。
宋代史ライター晃の独り言
徽宗はまさに波乱万丈の人生です。ただの芸術家で終わるはずだった人生が皇帝となり、そして最期は拉致されて死ぬ。天罰は訪れましたが、筆者は徽宗は憎めません。民を苦しめたのも、彼というよりも周囲の連中が悪かったとしか言えないですね。
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