『井伊直弼の首はどうなった?消えてしまった首の不思議』では、直弼の首の行方と病人を装って井伊家の存続が認められた経緯について取り上げました。首の行方だけでなく、桜田門外の変の後の井伊家について、教科書でほとんど取り上げられることがないことからほとんどの人が知らないと思います。
この記事では、井伊家の存続が認められた後、井伊直弼の子直憲が継いでから戊辰戦争を乗り切り、現在の井伊家について取り上げます。
この記事の目次
井伊家は直弼の死後、新政府に味方し幕府を倒して伯爵となる
井伊家は直弼の死後、明治新政府に味方します。なぜ幕府を見限り、明治新政府に味方したのでしょうか。理由として次のことが挙げられます。最初に、桜田門外の変に対する幕府に対する処分に納得できなかったからだと考えられます。幕府の井伊家に対する処分については石高を35万石から25万石に減らされました。直弼の頃の専横が処分の理由であると言われています。
次に、戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽伏見の戦いで、朝敵と見なされることを恐れたのではないかと考えられます。
戊辰戦争では、錦の御旗を見て朝敵になることを恐れて、旧幕府軍の兵士が逃亡しました。次に、水戸藩出身の徳川慶喜が将軍になったことが許せなかったことが理由として考えられます。新政府に味方をした結果、井伊直弼の跡を継いだ直憲は、1884年の華族令により伯爵家となりました。
彦根市の市長を9期務めた「殿様市長」井伊直愛
井伊直憲は新政府に味方したことにより華族令で伯爵家となりました。その後、井伊家は彦根を拠点とします。直憲の孫にあたる井伊直愛は1953年から9期(36年間)にわたって彦根市長を務めました。直愛が市長を務めていたとき、桜田門外の変以来わだかまりがあった水戸市と親善都市盟約を締結しました。直愛が市長の業務をしている一方で、農学博士として研究を続けていたという記録が残っています。直弼が部屋住みとして彦根城にいたときに学問にはげんでいた姿と共通しているところがあります。
現在の井伊家当主は婿養子の井伊岳夫さん
現在、井伊家の当主は井伊岳夫さんです。17代当主直豪さんの長女裕子さんの婿養子となり、現在当主になっています。彦根城博物館の館長で、彦根市の職員として井伊家のPRをしています。
琉球王国とも縁続きの井伊家
琉球王国と井伊家に血縁関係があるとは、ほとんどの人が意外に思うかもしれません。最初に、琉球王国最後の国王で、初代の琉球藩主となった尚泰王について取り上げます。明治新政府は廃藩置県を行って藩がなくなりましたが、廃藩置県と同じ年に琉球藩ができました。
初代の琉球藩主となったのは尚泰王でしたが、琉球処分により琉球藩はなくなりました。琉球藩と琉球処分は例外だから覚えるようにと予備校の先生からしつこく言われて覚えている人がいるかもしれません。次に、尚泰王の孫の尚昌について取り上げます。尚昌は1888年に沖縄県の首里に生まれました。1915年に宮内省式武官となり、父尚典の死去に伴い貴族院議員となりました。1923年、なくなりました。
尚昌の長女は文子で、井伊直愛(元彦根市長)に嫁いだことで、井伊家は琉球王国と縁続きとなりました。
直弼の死後も一族が結束して繁栄した井伊家
井伊家は直弼だけでなく、これまでにも断絶の危機に直面しましたが、一族が結束したことで井伊家が繁栄しました。
井伊直親が今川家の家臣に暗殺されましたが、跡継ぎが幼かったため、井伊家の断絶の危機を救うため、出家していた女性の井伊直虎が還俗して跡を継ぎました。直親の子は成人して井伊直政となり、彦根藩藩主となりました。
井伊直弼が彦根藩主になる前、14男で跡継ぎなる可能性がほとんどありませんでした。部屋住みで暇な生活を15年間送っていましたが、跡を継ぎがいなかったため、藩主となりました。直弼の死後、幕府が病死と装い、彦根藩の存続が認められたため直憲が跡を継ぎます。江戸幕府を見限り、新政府側について井伊家を救いました。井伊家の人たちは当主の暗殺という悲しみや断絶の危機を乗り越えるDNAがどこかにあるのかもしれません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
井伊家は当主の暗殺や断絶の危機を乗り切り、現在に至っています。井伊家は江戸幕府が終ってから彦根と関わって繁栄しています。井伊直愛だけでなく、他の地方自治体で殿様市長がいるのかどうか気になると思います。今後、殿様市長について調べてみたいと思いました。
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