曹魏を作り上げた曹操(そうそう)。
彼は後漢王朝を凌ぐ権力と広大な領土を獲得することに成功します。
だが曹操は後漢王朝に変わって皇帝の位に就任することはありませんでした。
彼は後漢王朝に取って代わることが目的ではなく、
彼が自ら作った詩である「短歌行(たんかこう)」にも自ら心情を吐露しております。
この曹操の姿勢は後世において禅譲をする際のマニュアルとして示すことになります。
後漢王朝の権威は失墜した事実
曹操が天下の半分以上を手に入れている時代に長城の外側にある異民族である匈奴(きょうど)は
危機感を感じて曹操の元へ挨拶に行くことにします。
当時匈奴は分裂しており、魏に臣従を決めていたのは南匈奴の側でした。
南匈奴の王である胡廚泉(こちゅうせん)は曹操の元へ行って、「今後共よろしくお願いします」と
挨拶に訪れております。
当時後漢王朝はまだ存続しているにも関わらず、
曹操へ挨拶に言った南匈奴の行動はある事実を物語っております。
それは後漢王朝の権力が失墜して頼りならないと長城の外側にいる異民族達が思っていたことと
魏が王朝を開いていないにも関わらず中華の外でも魏の権力が増大して、
頼りになる存在であることを示しています。
俺は周の武王になるんだ
曹操は家臣や諸外国の王から「なぜ後漢王朝なんていう信頼できない存在を
残しているのでしょうか。
あんなものはすぐに滅ぼして魏王朝を立ててしまえばいいじゃないですか。」と進言されます。
しかし曹操は「俺は後漢王朝を滅ぼす気なんてさらさらない。
もし後漢王朝を滅ぼすのであれば、それは俺の息子の代であろう。
俺は殷王朝よりも勢力・人望ともに優っていても滅ぼすことをしなかった周の文王になる」と
決意を表しております。
関連記事:よくわかる!周の成立から滅亡をざっくり分かりやすく紐解く
関連記事:周公旦(しゅうこうたん)とはどんな人?周王朝の基礎を固めた功臣
曹操の姿勢が後世のお手本になる
曹操はこうして後漢王朝を滅ぼすこなく、
そのまま王の位にとどまって亡くなってしまいます。
彼は生前色々な爵位や特権を後漢王朝から受けていましたが、
一度も後漢王朝から皇帝の位を禅譲されようとする姿勢を見せることはありませんでした。
この姿勢は後世にまで伝わることになり、王朝を滅ぼして皇帝の位を得ようと考えている者は
曹操の姿勢を真似てから王朝に君臨している皇帝から禅譲をしてもらおうとします。
この曹操が貫いた姿勢は「魏が漢を助ける故事」としてよく使われるようになり、
マニュアル化されていくことになります。
関連記事:献帝死亡説を利用した?劉備が漢中王に即位したのは孔明と法正の入れ知恵の可能性が浮上!
関連記事:司馬昭(しばしょう)とはどんな人?三国時代終焉の立役者でもあり司馬懿の次男
三国志ライター黒田レンのひとりごと
三国志ではどうしても曹操が後漢王朝をいじめ抜いて、
曹丕が父の跡を継いで後漢を滅ぼしたようになっております。
しかし曹操が禅譲を行う地盤を固めて、
曹丕が後漢王朝から皇帝の位を譲ってもらったシステムである禅譲。
このシステムは皇帝の位を受け継ぐシステムである禅譲は皇帝の位を持っている者、
皇帝の位を奪おうとしているもの両方にとって悪いシステムではないと思います。
なぜならば前王朝の皇帝の位に就いているものからう譲ってもらうことによって無血革命が
行われるからです(皇帝を譲るもの、皇帝の位を譲られるものとの間での無血革命であって、
それ以前に起きた戦いでは当然血が流れているが)。
この結果皇帝の位を譲った人物は次世代の王朝から無下に扱われることなく、
小さいながら領土をもらって農民以上の生活を行うことができます。
また皇帝の位を譲ってもらった方も新たな王朝を開くことができ、
前王朝の皇帝を殺害して奪った事実がなく負い目を感じることもありません。
こうして考えるとスムーズではありませんが、
皇帝の位を譲る方も譲られる方もそれなりに利益があるからこそ
曹操が行った姿勢は禅譲をする上で非常に大事な行動であると考えます。
しかし曹操が打算でこのような姿勢を貫いていたと考いたとは思えず、
自らの心情としてただ後漢王朝にとって変わろうとする意思がなかっただけのように思えます。
参考文献 朝倉書店 十八史略で見る三国志 渡邉義浩著など
関連記事:献帝死亡説を利用した?劉備が漢中王に即位したのは孔明と法正の入れ知恵の可能性が浮上!
関連記事:孟達に全てがかかっていた!諸葛孔明の北伐は成功したかも?