よくわかる!周の成立から滅亡をざっくり分かりやすく紐解く




王騎 キングダム

 

キングダムでお馴染みの春秋戦国時代に至る前、中国は周という王朝が立ち、

700を数えたという邑(都市)の盟主という形でした。

しかし、周がどのように興り、そして滅んでいったか?はあまり知られていません。

そこで、ざっくりと周の成立から滅亡までを追ってみましょう。

 

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周はどこから起きた王朝?

周 wiki

 

周王朝の伝説上の先祖は后稷(ごしょく)という人物で、三皇五帝の1人である

帝舜(てい・しゅん)に仕えて農業事業に功績がありました。

その領地は現在の陝西(ちんせい)省 宝鶏(ほうけい)市にあり、

ここは、古名を西岐(せいき)と言います。

そこから12代の後、古公檀父(ここうたんぽ)という人物が登場して、

後に洛陽となる土地である洛邑に拠点を定めました。

陝西省宝鶏市から洛陽までは553キロもありますので、

西岐が著しく勢力を伸ばしたという事が分かります。

 

古公檀父には、3名の息子がいましたが、その中で季歴(きれき)という末っ子がいて、

彼に息子が産まれた時、様々な縁起の良い事が起きたようです。

古公檀父は「わが一族を栄えさせるのは季歴であるとして」季歴に家督を譲ります。

季歴の子供というのが、後の文王である姫昌(きしょう)です。




文王は勢力を広げて西伯(せいはく)になり、息子の武王が殷を滅ぼす

photo credit: via photopin (license)

 

姫昌は祖父の古公檀父のめがねに違わず、姜子牙(きょうしが:太公望)などの

助けを得て領土を拡大していきます。

殷(いん)は、姫昌を懐柔しようという思惑もあり西伯という称号を与えます。

この時点ですでに西岐の勢力は殷よりも遥かに強くなっていました。

しかし、姫昌は、義理を立てたのか寿命が尽きたのか殷を倒す事なく病死します。

 

ですが、子である姫発は、殷の帝である帝辛(てい・しん:紂王)が暴虐で

民を虐げているとして、軍を発し、各地の諸候をまとめて殷の都である朝歌に

侵攻し、牧野の戦いで帝辛の軍勢を破り、殷を滅ぼします。

こうして、周王朝が建国されました、紀元前1046年の事です。

武王は都を鍋京(こうけい:長安付近)に定めますが間もなく病を発して病死します。

 

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周公旦が幼い成王を輔弼して周の体制は定まる

漢王朝 平定 安心

 

武王は若くして死んだので、息子の成王(せいおう)はまだ幼少で政治を見れません。

そこで武王の弟の周公旦(しゅうこう・たん)が後見として斉王を補佐します。

途中で三監の乱のような不満分子の内乱もありましたが周公旦はこれを鎮圧し

7年後、無事に成王が成人すると政権を返上します。

 

周は成王と息子の康王(こうおう)の時代にもっとも治まり40年間も善政が続き

刑罰を受ける人間は一人もいなかったと伝えられています。

遂に、政権を奪わなかった周公旦は臣下の理想とされ、

特に孔子に賞賛された事で聖人として、後世の中国で理想の人物とされました。

 

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暗君が続く周は没落の道を進む

photo credit: via photopin (license)

 

しかし、建国から200年程が経過すると周も乱れ暗君が登場します。

10代の周王である厲王(れいおう)は横暴にして強欲な王で、家臣に分けるべき

宝物を独り占めしたり、少しでも民が自分を批判すると容赦なく処刑したので、

人々は言葉を出すのを恐れ、アイコンタクトでお互いの意志を伝えたと言います。

 

もちろん、こんな政治が長く続く道理もなく紀元前842年には、庶民の怒りが

爆発して、周の王宮に国人が乱入して厲王を殺そうとする事態になります。

 

厲王は、びっくりして鍋京を逃亡して黄河を渡って亡命します。

王が不在になった周では、賢臣である為に厲王に遠ざけられていた、

召公(しょうこう)と周公(しゅうこう)が代理として政治を見る事になります。

紀元前828年に亡命していた厲王が死去し、王がいなくなったので、

二人は厲王の息子である姫静(きせい)を立てて、彼は宣王(せんおう)になります。

 

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