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知ってた?桜田門外の変は超お粗末な事件だった

2018年5月27日


 

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井伊直弼

 

NHK大河ドラマ西郷(せご)どん、憎々しい悪役として振る舞っている井伊直弼(いいなおすけ)ですが、いよいよ、5月27日の放送は運命の桜田門外(さくらだもんがい)の変です。明治維新の重要なターニングポイントとも言われる劇的な桜田門外の変、実は、ドラマチックとは程遠い、お粗末な事件だった事を知っていますか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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江戸町人が大勢目撃していた白昼堂々事件

 

桜田門外の変は、だいたい映画やドラマでは雪の降りしきる、いかにも寒そうな街道を絢爛(けんらん)駕籠(かご)と従者が粛々と進んでくるという筋書きです。それを見ていると、目撃者もない静かな暗殺劇に見えますが実は大嘘なのです。その日、旧三月三日は雛祭(ひなまつり)で江戸在府の諸大名は江戸城に登城するしきたりで、大名屋敷から全国の藩主が江戸城に向かって進んでいました。

 

もちろん江戸町人もそれを知っていて、街道は武鑑(ぶかん)という大名の家紋を乗せたカタログを片手に大名行列見物としゃれこんだ町人で(あふ)れていました。そもそも、井伊直弼を襲撃する水戸藩士等も、武鑑を片手に大名行列見物にまぎれていたくらいなのです。映画やドラマの静謐(せいひつ)な桜田門外の風景も撮影カメラの角度を少し変えると、そこには長閑(のどか)に彦根藩の大名行列を見物する沢山の江戸町人が映っていた事でしょう。そして、事件の一部始終は江戸町人にばっちり見られていたのです。衆人環視(しゅうじんかんし)の白昼堂々、事件は起きていました。

 

 

彦根藩邸から僅か400メートル たった10分の事件

彦根藩邸から僅か400メートルの地図

 

実は、江戸の彦根藩邸は桜田門からも近い場所にありました。井伊家は譜代大名の筆頭で重鎮(じゅうちん)なので特に優遇されたのでしょうが、その距離は直線距離で400メートルに過ぎませんでした。桜田門から、彦根藩邸は目で確認できる程に近い場所であり、大老、井伊直弼は、まさに幕府の庭先で殺されたも同然だったのです。

 

いかにそれまで、大名駕籠を襲う事件は無かったとはいえ、六十名余りの駕籠の従者は、18名の襲撃者に手も足も出ず半数は逃げてしまい暗殺者達は、煙草一服の時間、僅か十数分で井伊直弼の首を挙げています。いかに強弁しても、十数分で主君の首を取られた彦根藩士には弁解の余地は無かった事でしょう。

 

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俺達尊攘派

 

 

実は最初のピストル一発で死んでいた!残念な井伊直弼

残念な井伊直弼

 

桜田門外の変は、水戸藩士、森五六郎(もりごろくろう)が直訴を装って彦根藩の駕籠に近づき、直訴状の下に隠したピストルを取り出して身をかがめ至近距離から駕籠に発砲、それを合図にして水戸藩士達が斬り込み始まります。

 

定説では、井伊直弼は太股から腰に向けて銃弾が貫通し動く事が出来ず自慢の居合を披露する事も出来ずに、次々と水戸藩士に駕籠に刀を突きさされ、最期は薩摩藩士の有村治左衛門(ありむらじざえもん)が直弼を駕籠から引きずり出して、気合一閃、首を落としたとされています。

 

しかし、井伊直弼を検死解剖した医師、岡島玄達(おかしまげんたつ)の記録によると、直弼の致命傷は太股から腰を貫いた貫通銃創であるそうです。それを信じるなら、井伊直弼の死因は有村治左衛門に首を討たれたのではなくピストル狙撃による出血多量死という事になります。それだと仮に、水戸藩士達の襲撃が失敗しても井伊直弼は助からなかったという事になってしまいますね・・すでに死んでいる主君の為に暗殺者と戦っていた彦根藩の有志、そう考えると複雑なものがあります。

 

 

1年前にもピストルで狙撃されていた井伊直弼

 

また、最近の史料では井伊直弼を狙撃した森五六郎は桜田門外の変の一年前に赤坂喰違坂(あかさかくいちがいざか)で単独でピストルで井伊直弼を狙撃、失敗して濠に飛び込んで逃げたそうです。もし、この時の事を井伊直弼が重要視して、ピストルに警戒していたら護衛は増やさなくても、せめて駕籠の四方に鉄板を仕込んで防弾仕様にしていたら、狙撃されても、動けなくなる事なく達人級の居合で修羅場を潜り抜け死なないで済んだかも知れません。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

桜田門外の変のグダグダは事件の後も続きました。幕府は白昼堂々の大事件が幕府の威信を落とす事を怖れて、事件そのものを無かった事にしようとしたのです。ただちに事件現場の死体や負傷者を回収し、血で染まった雪を取り去り若年寄、遠藤胤統(えんどうたねのり)の屋敷に預けられた直弼の首を回収すると、前述の彦根藩医師、岡島玄達が首と胴を繋ぎ合わせて生きている事にし布団を被せて重病という事にしたそうです。

 

このお芝居には、将軍も各大名も付き合い、見舞いに来たり、高麗人参(こうらいにんじん)などを届けるなど、重病人として扱いしばらくして病死したという事にして済ませました。もちろん、内心では誰もそんな事は信じておらず、大老井伊直弼暗殺の衝撃は全国津々浦々、奄美大島に流されていた西郷どんにも届くのです。

 

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西郷どん

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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