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幕末にサソリ固め!来島又兵衛の壮絶なアラフィフ人生

2018年7月22日


 

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来島又兵衛

 

2018年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」では長州力(ちょうしゅうりき)さんが演じる事になった長州藩倒幕派の急先鋒(きゅうせんぽう)来島又兵衛政久(きじままたべえまさひさ)、まもなくアラフィフでありながら最もアクティブに倒幕に邁進した又兵衛は、その戦国武将さながらの最期と併せ一瞬でも鮮烈な印象を与えています。そんな木島又兵衛の生涯とは、一体どんなものだったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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生まれながらのガキ大将

 

来島又兵衛は1817年長門国厚狭郡西高泊村(ながとのくにあつさぐんにしたかとまりむら)無給通組の下士喜多村政倫(きたむらまさみち)の次男として生まれました。無給通組というのは長州の下級武士では上級、しかし田畑は支給されず家禄だけなので、無給通組と呼ばれていました。1817年というのは西郷どんより10歳上で、島津久光(しまづひさみつ)と同じ年です。幕末の志士の中では、かなりの年配者にあたります。

 

そんな又兵衛は、子供の頃から生まれついてのガキ大将で、合戦ごっこが大好き、近所の子供達を引き連れてホラ貝を吹き鳴らし実戦さながらの竹槍合戦をしたそうです。考えて見ると又兵衛の最期は、スケールの大きな合戦ですから、子供の頃のガキ大将さながらに大きくなったという事かも知れません。

 

 

来島政常の養子になり来島姓を名乗る

 

木島又兵衛は、若い頃から文武両道に優れた大柄な青年でした。それが長州藩の中上士、木島又兵衛政常(きじままたべえまさつね)の目にとまり婿養子(むこようし)になります。上役から目をかけられた位ですから、又兵衛は余程優秀だったのでしょう。1841年には九州の柳川藩に向かい、そこで天保の三剣豪の一人、大石進(おおいしすすむ)に剣術を学んでいます。

 

1846年には江戸に出て、さらに久保田助四郎(くぼたすけしろう)道場で学び、槍術と馬術も達人級、さらに見た目に似合わず算盤(そろばん)も上手で経理に明るく吉田松陰(よしだしょういん)は「来島又兵衛は胆力は人に過ぎ、算術に密思あり」と評価しました。そのような人なので、当時の形ばかりの武芸に不満を持ち、実践的な武芸を導入する事を村田清風(むらたせいふう)に要望しそれが入れられています。

 

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幕末のエンジニア達

 

 

黒船来航を目の当たりにし海防を考える

ペリーの黒船来航を見ちゃった坂本龍馬

 

1849年に養父の来島政常が死去、又兵衛は1851年に家督を継いで来島又兵衛政久を正式に名乗る事になります。1853年3月、藩主の毛利敬親(もうりたかちか)について、江戸に出ますが、その年に浦賀に黒船が来航、武力を背景に幕府に開国を迫ります。外国の脅威を目の当たりにした又兵衛は、12月には海防を強化するように藩主に意見書を提出、この頃から攘夷(じょうい)に傾倒して行ったようです。

 

大久保利通

 

 

1862年、攘夷の旗頭を誰が握るかで関係がギクシャクした薩摩と長州の関係修復を図る為に長州重臣の周布政之助(すふまさのすけ)が酒宴を催します。この時、薩摩からは大久保一蔵(おおくぼいちぞう)堀次郎(ほりじろう)が参加、長州からは、木島又兵衛等数名が出席しました。ところが、仲直りの酒宴にも関わらず堀次郎は酒が入ると周布政之助を挑発これに酒乱の気がある周布が応じ、剣舞と称して刀を抜いて舞い始め血の気の多さでは、周布に負けない又兵衛も刀に手を掛けます。

 

まずいと思った大久保一蔵は、「ほんの座興でごわすが・・」といきなり、畳を持ち上げて、手の平でくるくると回し始めました。これで気勢を削がれた周布と又兵衛は、刀を収めたそうですが、要するにこういう人なのです、又兵衛は・・

 

 

乱世到来、水を得た魚のように活動するアラフォー又兵衛

黒船

 

1863年前半は長州藩の天下でした、京都を手中に収めた長州の尊攘派は、幕府に対して将軍の上洛と攘夷の決行を迫り、自分達が手本を見せてやると下関海峡を通る外国船を砲撃、この戦いにはもちろん又兵衛がいました。彼は、猟師を集めて狙撃兵80名を編成して京都御所を警護していましたがちょうど又兵衛が京都を留守にしていた時に、薩摩と会津藩が主導した八・一八の政変が勃発し、長州藩士は京都を追われます。

 

まあ、又兵衛がいなくて幸いでした、もしいたら、その場で爆発して一人禁門の変をやりかねない人ですから・・

 

この政変を受けて、萩では、追放された七卿(しちきょう)を押し立てて、天皇に長州の無罪を訴えようと言う真木和泉(まきいづみ)の意見が支配的になります。同時に高杉晋作(たかすぎしんさく)奇兵隊(きへいたい)を創設、それに触発された又兵衛は町民や農民を集めジャパンプロレス維新軍遊撃隊を久坂玄瑞(くさかげんずい)と創設します。

 

 

慎重派に我慢できず、来島又兵衛脱藩

島津久光

 

しかし、先に奇兵隊を創設した高杉晋作は桂小五郎(かつらこごろう)や周布政之助と歩調を合わせ京都に進軍する事には反対で、富国強兵に勤めて時機を待つべきとします。これには、又兵衛は我慢できず脱藩して単独で京都に潜伏し、なんと島津久光を暗殺しようとしますが警護が厳重で失敗します。やがて、藩から帰還命令が出たので戻ると、脱藩の罪で投獄されますが長州藩は、桂小五郎や久坂玄瑞の慎重論を重く見て、再び又兵衛を京都に送り込みます。

 

忠臣蔵

 

 

すると又兵衛は、今度は京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の暗殺を企てて、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)に習い、火消し装束や鎖帷子(くさりかたびら)を買い集めて準備しますが、やはり警戒厳重で襲撃は出来ませんでした。無駄にアクティブな又兵衛ですが、ここで、横浜鎖港論を巡り、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)島津久光(しまづひさみつ)等が仲違いし、参与会議が空中分解したニュースがもたらされました。続々と帰っていく諸侯を見た又兵衛は、今こそ進軍のチャンスと長州に帰還します。

 

 

禁門の変勃発!

京都御所

 

又兵衛は、今こそ京都に進撃するチャンスだと説きますが、なおも周布政之助等は慎重論でした。地団駄を踏む又兵衛ですが、ここで、池田屋事件で長州藩士が、新選組に大量に殺害されたり、捕らえられた情報が入ります。ここで、藩論は一気に進発論に傾き、長州藩は京都への進軍を決定又兵衛は勇躍し先祖伝来の甲冑に中折れ烏帽子、陣羽織を着込みさながら、戦国武将が絵から抜け出たようであったそうです。

 

公家

 

 

長州軍2000が京都に入ると、戦乱を怖れる公卿が長州を赦免(しゃめん)するように運動しますが、一橋慶喜と松平容保はこれを一蹴します。

 

「どうしてもと言うのなら私も会津侯も辞職しますので後はどうぞ皆さまでご自由に」等と臆病な公家に辞職をちらつかせます。薩摩藩の西郷(さいごう)も、朝敵の長州を赦免できないと一橋慶喜に同調したので長州赦免論は立ち消えになります。一橋慶喜は、この力を背景に、7月17日までに長州藩が兵を解いて京都を立ち退くように又兵衛に勧告しました。

 

 

戦国武将さながら、又兵衛壮絶な戦死

 

7月17日、戦う気満々の又兵衛は、出陣の準備は出来たか?と問いますが久坂玄瑞、福原越後(ふくはらえちご)宍戸左馬之助(ししどさまのすけ)はしんとして声も出ません。激怒した又兵衛は「この期に及んで何をしとるか!」と叱りつけます。

 

ここで、慎重派の久坂がせめて後続の長州藩兵9000が来るまで、持久してはどうか?と持ち掛けますが、キレてしまった又兵衛は「臆病者はわしの戦を見物しておれ!」と怒鳴りつけます。

 

ここで軍師格の真木和泉が又兵衛の意見に賛同した事から、ついに出陣が決まりました。7月18日の夜半、長州勢は二手に別れ又兵衛は600名を率いて御所に向けて進撃、御前五時頃には蛤御門(はまぐりごもん)で激戦になります。又兵衛の軍勢は会津藩兵を押し返して門を突破しますが、そこへ西郷隆盛率いる薩摩藩兵が援軍に到着して形成が覆ります。それでも奮戦する又兵衛に薩摩藩士、川路利良(かわじとしよし)の撃った一発の銃弾が命中それは胸を貫通して致命傷になりました。倒れ込んだ又兵衛は二度と立てない事を悟り、甥の喜多村武七を呼んで介錯を頼むと槍で自分の喉を突いて自殺します47歳でした。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

通常は若者を抑える役になる筈の中堅の世代の来島又兵衛と真木和泉が慎重派を引っ張って主導した禁門の変、その結果は400名以上の死者を出す長州藩の惨憺(さんたん)たる失敗でした。

 

しかし、この大勢の藩士の犠牲の為に長州藩では幕府憎しは決定的になり俗論派は大きな勢力を得られず、長州征伐後もすぐに高杉晋作がクーデターに成功し藩論を佐幕から攘夷に戻してしまうなど藩論がぶれませんでした。来島又兵衛は当人の意図せぬ間に長州に倒幕以外に生きる道はないと覚悟させた点で維新史に無くてはならない功績を残したのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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