前原一誠と言えば、不平士族のリーダーとして萩の乱を起こし、処刑された人物として有名です。しかし、戊辰戦争に加わっていたことや吉田松陰の仁政を実践していたことについてはあまり知られていません。この記事では、前半で北越戊辰戦争における前原の役割について取り上げます。後半では、前原が越後判事として行った仁政について取り上げます。
前原一誠、北越戊辰戦争!
前原一誠は長州藩で高杉晋作らと挙兵して藩の権力を奪います。藩の権力を奪うと、討幕に向けて動きます。1868年から始まった戊辰戦争で、前原は北越戦争に加わります。北越戦争では長岡城の攻略に成功し、明治新政府では賞典禄600石を賜りました。
前原一誠の越後での政治活動「仁政」
まず、仁政について取り上げます。前原一誠は松下村塾の塾生でした。前原は松下村塾で吉田松陰から人に優しい政治(仁政)を教授されました。長岡城を攻略した後、越後判事として仁政を実践します。最初に、戊辰戦争時とその後の越後について取り上げます。
北越戦争は長岡藩の激しい抵抗により激戦地となりました。長岡藩では多くの建物が焼失しただけでなく、新政府軍は地域から物資と人員の徴発・動員も行われていました。このことに対して、新政府軍に対して一揆や騒動が相次いで起こりました。戊辰戦争とほぼ同時期に新潟県内で洪水も起こりました。次に、新潟県内で一揆・反乱と洪水がこったことに対して、明治新政府はどのように対処したのでしょうか。新政府は民政の重要性を認識したうえで、民政と軍事を分離する政策をとります。前原一誠は判事として仁政を実践します。仁政として年貢を半減します。
年貢の半減に対して、明治政府が財政難であるために大隈重信や江藤新平らが反対する書状を前原一誠に送りましたが、憶することなく実行しました。
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信濃川の治水工事、費用はどうする?
前原一誠は年貢の半減という仁政を実行しました。越後では信濃川が氾濫を起こしていました。前原は仁政のために信濃川の治水工事を計画します。しかし、信濃川の治水工事については明治政府の了解を得ることができませんでした。明治政府は財政難であるために治水工事の資金を捻出することができなかったと考えられます。
中央政府からの目線で、前原を考えてみよう
1869年、山口藩では奇兵隊など諸隊を解散させる命令が出されました。この命令に対して諸隊にいる武士が反乱を起こしました。前原は穏便な処置を試みましたが、木戸孝允ら明治政府は武力で討伐しました。この反乱を起こした元諸隊にいた隊士は戊辰戦争を戦っていましたが、明治政府になってから戊辰戦争に対する戦功としてわずかな報奨金しかもらえず、使い捨てにされました。
前原一誠は国民皆兵で木戸孝允らと対立し、明治政府を去りました。明治政府を去って萩に帰ると、不平士族からリーダーとして担ぎ出され、萩の乱を起こしました。萩の乱の後、江藤新平による佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争と不平士族の反乱が起こります。
明治政府から見て、士族をどのように見ていたのでしょうか。明治政府は財政難であったことから財政再建のために経費を削減しなければなりません。経費を削減するために廃藩置県や秩禄処分(士族の給与の支給廃止)など改革を断行します。士族の特権を奪うことになり、結果として士族の反乱につながったと考えられます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は前原一誠の越後での仁政について取り上げました。前原は吉田松陰の教えである「仁政」のため、何かしなければならないと考えたのかもしれません。年貢の半減は実行できましたが、信濃川の治水工事については実行できませんでした。前原が明治政府にいたときに士族の特権を奪う改革をしたことで、仁政を重んじる前原にとって耐えられなかったのかもしれません。
前原一誠は士族から人柄を評価され、不平士族の反乱のリーダーに駆り立てられたのかもしれません。今後、前原一誠の人柄について注目したいと思います。
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