大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』によれば、大河ドラマの主役は、日本人で初めてオリンピックに参加した金栗四三と東京にオリンピックを招致した田畑政治の2人です。
今回は、2人の主役のうち田畑政治の出身地について取り上げます。
田畑政治とは?
田畑政治とは1898年生まれで静岡県浜松市出身です。東京帝国大学卒業後に朝日新聞社に入社しました。新聞記者だけでなく、水泳指導者も務め、1932年のロサンゼルスオリンピックなどで日本代表監督を務めました。
戦後、1948年に日本水泳連盟の会長に就任しました。1948年のロンドンオリンピックに参加することはできませんでしたが、同日に水泳の日本選手権を開催する事に成功しました。1949年には国際水泳連盟の復帰に成功しています。
1952年のヘルシンキオリンピックと1956年のメルボルンオリンピックで日本選手団の団長を務めるなど戦後間もない頃から東京にオリンピックを招致することに力を入れ、1964年の東京オリンピックの招致に成功しました。
1973年から4年間日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めました。1984年に死亡しました。
田畑政治の出身地は静岡県
田畑政治は、静岡県の出身です。
静岡県浜松市中区の造り酒屋「八百庄商店」に明治31年12月1日に生まれました。
実家は、相当な資産家だったようで、田畑政治は何不自由なく生活でき、夏や冬の長期休みには別荘で生活する程のセレブな生活でした。
しかし、そんな田畑の家系は病弱で、祖父も父も体が弱く結核で早死にしていました。
田畑政治も、そんな遺伝子を受け継ぎやはり病弱で、30歳まで命が持つかどうかと医師に言われていました。
ところが田畑は病弱にも関らず、大の水泳好きで別荘近くの浜名湾で泳いでいて、地元の水泳クラブ「遠州学友会水泳部」でも1、2を争うような
エース格でした。
田畑はこのまま好きな水泳で水泳競技者になる事を夢見ますが、出身地の浜松中学校(現在の浜松北高校)の4年生の時に盲腸炎と大腸カタルを併発
医師に「泳げば死ぬ」とドクターストップがかかり水泳競技者の道を断たれるのです。
田畑政治は出身地、浜名湾で後輩を指導
競技者になる夢は断たれたものの、田畑はそれなら指導者になって水泳競技者を育てようと奮起し後輩の指導に尽力、その努力が実り、
見事に浜松中学校は大会で優勝しました。
田畑は、これで満足せず、次の目標に浜名湾を日本一の水泳王国にしようと考え周辺の中学校水泳部などを統括する「浜名湾遊泳協会」を設立して
大規模な選手育成を開始しました。
まだ学生なのに、この行動力は凄いですね、やはり彼には、天性の物事を組織化して強化する才能があったようです。
指導熱心な田畑は、その後、第一高等学校へ進学しますが、休みがある度に浜名湾に戻り、水泳の普及と後輩指導を継続したそうです。
こうして考えると、田畑政治は別荘地にあった浜名湾のお陰で水泳に興味を持ち、それが昂じてオリンピックに関わり、それが1964年の
東京オリンピックの招致に繋がったと言えますね。
東京五輪ライターオフィス樋口の独り言
今回は、NHK大河ドラマいだてんの主人公の一人、田畑政治の出身地について紹介しました。
病弱だった田畑ですが、家が裕福でセレブな生活を送り、夏や冬の休みには別荘で優雅に過ごすお坊ちゃんだった事が分かりました。
しかし、別荘の近く浜名湾があり、そこで水泳に夢中になった事が田畑政治を水泳競技の指導者にし、やがてそれがオリンピックに繋がるなんて
田畑にとっての出身地の浜名湾は、彼の人生を変えてしまう程に大きな存在だったのでしょうね。
田畑はその後も浜名湾の水泳競技に関わり続け、浜名湾水泳チームの日本一を証明する為に、浜名湾北の弁天島に、幅30メートル、長さ100メートルの海水プールを作り、そこで全国水泳大会を開催しました。そして大正12年、浜名湾遊泳協会を全国一に導いたのです。
強引と言うか何というか、とにかく田畑政治の人生は出身地の浜名湾とは切り離せないですね。
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