後漢王朝の名家として三国志に登場した袁術。袁術は名家出身のお坊ちゃんで、何でもかんでも自分で決めて他人からの意見をほとんど聞くことなく独断専行で物事を決めていた人物です。
そんな独断専行で他人の意見を聞かない袁術ですが、ある人物を軍師として欲していたことをご存知でしょうか。
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人の意見を聞きたがらない袁術
袁術は後漢王朝の名家のお坊ちゃんとして三国志に登場します。彼は名家出身だったからなのでしょうか。自分の意見に反対するような意見には耳を貸したがらない性格でした。
正史三国志袁術伝によれば、袁術が皇帝へ就任する際、一応家臣たちへ「現在天下は乱れに乱れ、後漢王朝の統治力が弱まっているのが実情だ。袁家は代々三公の位を輩出している名家で人望もある。そして袁家の人望を受け継ぐ私が中華の皇帝となって民衆の不安を取り除き、天下を治めようと思うのだがどう思う」とアドバイスを求めたそうです。
袁術の家臣は袁術の言葉に反対意見を述べるような人物がいませんでした。しかし袁術の家臣・閻象は顔を上げて袁術へ「殿の家柄は名家として栄え、名声も十二分にお持ちだと思いますが、後漢王朝が乱れているとしても、殿が皇帝として立つのは良くないと思います。」と反対意見をバシっと述べます。
袁術は閻象の意見を聞くと不機嫌になってしまい、彼の意見を採用せず、自分で勝手に判断して皇帝になってしまうのでした。
上記のように袁術は自分の意見と反対の意見を採用しないで独断専行する人物でした。
そんな袁術は本当に軍師を欲しいと思っていたのでしょうか。
袁術が軍師を欲しがっていた!?
袁術は人の意見を聞かないで独断専行でどんどん決めていってしまう人物ですが、ある人物を軍師として欲していたのです。袁術が軍師として欲しがっていた人物は徐州下邳・出身の陳珪です。
どうして袁術は陳珪を軍師に迎えようとしていたのでしょうか。
名家出身で仲が良く才能もあったから
袁術は陳珪をどうして迎え入れようとしたのでしょうか。
その理由は袁術と陳珪は昔から仲良く、陳珪が名家出身の人物だったからです。また陳珪は後漢王朝に仕えて済北郡の太守を務めたことから政治にも優れた才能を持った人物でした。そのため袁術は陳珪を自分のもとへ軍師として迎え入れるため、何度もラブレターを送りつけたそうです。
しかし陳珪は袁術のラブレターをもらっても、彼の元に家臣として加わりませんでした。どうして陳珪は袁術の配下に加わらなかったのか。それは袁術が大勢力を築いて後漢王朝に取って変わろうとしてる魂胆を陳珪が察していたからです。そのため陳珪は袁術の配下として加わりませんでした。
そして陳珪は袁術へラブレターの返信の手紙を書いて送ります。陳珪は袁術の手紙の中で現状の後漢王朝の状態や自らの本心などを語った後「君の配下には死んでもならない」とふられてしまうのでした。袁術は陳珪にふられてしまうと彼の元に二度とラブレターを送らなかったそうです。
三国志ライター黒田レンの独り言
袁術は陳珪にラブレターを送っていますが、どのような内容のラブレターを送ったのでしょうか。
正史三国志に記載されている袁術のラブレターを簡単に紹介して終わりたいと思います。袁術は陳珪を軍師として向かい入れるため「君と僕は仲がよくともに遊んだよね。僕が大きな仕事をするときには君を軍師として向かい入れたいんだけどどうかな」とラブレターでした。
人の意見を聞かない袁術も以外と軍師を求めていたのは意外だったとレンは思うのですが、みなさまはどのように思いますか。
■参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書など
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