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今週もお疲れ様。王になった劉備のもう一人の息子

2021年6月18日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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今週もお疲れ様でした 劉備

 

はじめての三国志TVをご覧の皆さん。1週間お疲れ様でした。今回のお疲れキャラは劉備です。

 

劉禅と孔明

劉備の息子といえば、劉禅が有名ですが、劉禅以外にも劉備には息子がいました。

 

 

劉永もその1人で、221年に魯王になっています。ん?魯って豫洲じゃないの?蜀の支配下にないよね?

 

そう思った人は鋭い。蜀は再興した漢という位置づけなので今は奪われていても、いつか中華全土を回復するぞと名前だけは魯王を置いたのです。

 

黄皓

 

この劉永は、なかなか骨のある公子で黄皓について激しく諫言した結果、黄皓に疎まれて劉禅に讒言を吹きこまれ以後、蜀滅亡まで劉禅に朝見を許されませんでした。

 

三国志のモブ 反乱

 

蜀滅亡後に劉備の子孫たちは、洛陽に移動させられますが永嘉の乱のとばっちりで皆殺しになります。しかし、唯一、劉永の孫の劉玄が脱出して先祖の土地である益州に逃れ、成漢を建国していた李雄に迎えられ安楽公として迎えられました。

 

その後も劉玄は長生きし347年、東晋の大司馬桓温が成漢を滅ぼした時また劉玄は成都で存命だったそうです。劉備の子孫は時々長い旅をするそういうDNAなのかも知れません。

 

蜀漢の滅亡

 

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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