
南宋は、1127年から1279年まで主に中国江南地方を支配した王朝です。
三国志で説明すると蜀と呉の領地を併せた位が南宋の支配地域でした。南宋は、女真族の王朝である金に華北を奪われ、北宋の王族が江南に亡命して出来た臨時政府ですが、経済力では北宋を大きく上回る繁栄を見せます。
ところが南宋は戦争には弱く中国史上最弱の軍隊しか保有していませんでした。今回は英雄岳飛を産み、日本とも繋がりが深い南宋について解説しましょう。
北宋滅亡と南宋建国
暦1127年、宋の太祖趙匡胤が建国した北宋は、女真族が興した金王朝の侵攻により滅亡しました。靖康の変です。
金は北宋の皇帝徽宗や多くの王族と重臣を人質に取りますが、その中で徽宗の9男、高宗が金の追撃を逃げのびて江南に亡命政府を樹立しました。
当初不安定だった亡命政府ですが、1138年に臨安を都としてから安定し、1279年に元の侵攻を受けて滅亡するまで江南地方を中心に勢力を維持します。これが南宋です。
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紹興の和で経済大国の道へ
金は北方騎馬民族である女真族の建国した国であり、長江を越え江南地方まで攻め込む意欲はありませんでした。
それでも、国境が画定するまで抗争は頻繁であり、主戦論を説く岳飛と和平を説く秦檜の二陣営が激しく対立して政争が起こります。
高宗は岳飛の主戦論ではなく秦檜の和平論を採用。1142年、金に対して多大な貢納と引き換えに紹興の和を結び淮河を国境とします。紹興の和を実現した事で南宋は国力を江南開発に振り分ける事が可能になり経済大国への道を歩む事になりました。
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南宋 武将
南宋は北宋建国以来の国是である文官優位態勢を維持したので、武官は不遇でしたが、それでも見るべき名将は何名か存在します。
・岳飛
西暦1103年、豪農の出として北宋末期に誕生し、1122年には開封を防衛していた宗沢の義勇軍に参加します。岳飛は武勇に優れ、金との戦いで功績を挙げ1134年には清遠軍節度使・湖北路荊襄潭州制置使に任命されました。
1140年には北伐の軍を起こし、朱仙鎮で会戦を行い金の総帥斡啜の率いる軍を破って開封目前まで迫りますが、政敵である秦檜の策謀で撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされます。
その後、岳飛は国内の抗戦感情を煽る危険な存在として秦檜に謀反の冤罪を被せられ処刑されました。
・韓世忠
西暦1088年、延州綏徳城の貧家に生まれます。北宋は貧困対策として貧しい青年層を兵士として取り立てて職を与え、社会不安を軽減する政策を採用していて韓世忠も18歳で軍人になります。
1120年、方臘の乱が起きると、王淵指揮下の将校として鎮圧に従事し方臘を捕虜にする大手柄を挙げ万人敵と称えられます。南宋の宿敵であった金の侵攻も何度か退けますが、大勢は覆らず靖康の変の後は高宗を済州まで護衛、以後は金との戦いに明け暮れました。
黄天蕩の戦いでは妻の梁紅玉とともに8千の兵で金の10万の大軍を巧みに翻弄し敵兵2万5千を倒すという殊勲を挙げ、高宗から「中興の武功第一」と称されますが和平派の秦檜の勢力が強まると兵権を奪われ隠遁します。
・張俊
1086年秦州三陽寨に誕生します。家は貧しく少年時代は匪賊に属していましたが、16歳の時に地元の軍の弓箭手募集に応じ西夏や金との戦いに参加します。
靖康の変では太原府で金軍を防いでいたものの脱出。南宋を建国した高宗に仕えて金軍との抗争を通じて戦功を重ね軍閥のボスとなりました。しかし、同時期に急成長してきた軍閥の岳飛に反発、秦檜が金との紹興の和議を提案すると岳飛が和平に反対している事から対抗意識で秦檜に賛同。秦檜と共に岳飛を陥れ、見返りに枢密使のポストを得ます。その経緯から秦檜と同様の国賊とされます。
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南宋 宰相政治
南宋は文官優位の国であり、その象徴として宰相の権力が非常に強い体制でした。ここでは、南宋の宰相を数名紹介しましょう。
・秦檜
売国奴として現在中国でも評判が悪い秦檜ですが、金との抗争に疲れた高宗に信任され宰相の地位に就くと和平案を推進し岳飛、韓世忠、張俊のような軍閥に握られていた兵権を取り上げて朝廷の下に一元化します。
さらに、金との和平を完全なものとする為、秦檜は主戦論者を弾圧。槍玉として岳飛に謀反の濡れ衣を被せ処刑しました。こうした犠牲を払い、紹興12年(1142年)に宋と金の間で紹興の和議が成立、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり政局が安定します。
秦檜は売国奴のレッテルを貼られがちですが、その権力は高宗の支持により成立したものであり、当時の南宋にも抗戦派だけでなく和平派がいた事も見逃せない事実でしょう。
・韓侂冑
韓侂冑は1152年に相州安陽県で誕生します。父の韓誠が高位だった事からその恩恵で高い地位からキャリアをスタートし、孝宗の末年には汝州防禦使、知閣門事に昇進します。
孝宗は南宋最高の名君であり金の名君である世宗と長期の平和を維持していましたが、後継者の光宗は無能で慈懿皇后に政治は委ねられていました。韓侂冑は、宰相の趙汝愚と光宗を退位させ光宗の子である嘉王趙拡の即位を画策し太皇太后呉氏支持を受けて寧宗を即位させます。
以後、韓侂冑は自身を遠ざけた趙汝愚たちの追い落とし1195年に趙汝愚は宰相を追われ韓侂冑は宰相の地位に就きました。韓侂冑は、晩年後ろ盾の恭淑皇后と慈懿皇太后が相次いで死去して求心力が低下。その頃、金が北のモンゴルの侵入に悩まされていたので金を倒し中原を回復すれば地位は盤石と考え1206年に開禧の北伐を開始します。
ところが南宋軍は衰えた金よりも遥かに弱体化していて、北伐は失敗に終わります。1207年、金は早期和平を望んで北伐の元凶、韓侂冑の首を南宋に要求。礼部侍郎の史弥遠が韓侂冑を殺害。翌年には嘉定の議が締結されました。
・史弥遠
史弥遠は孝宗の治世に右丞相を務めた史浩の子で1179年に明州鄞県に誕生しました。1206年宰相の韓侂冑が、金との和平条約を破棄して北伐に乗り出し失敗すると、史弥遠は北伐反対派として楊皇后と共謀して韓侂冑を殺害。
韓侂冑粛清に協力した銭象祖、衛涇を追放し、単独宰相として25年間権力を維持しました。しかし、史弥遠の政治は兌換紙幣、会子の濫発による物価高と重税により支えられ文治主義が重んじられて軍事力が低下、南宋滅亡の原因を造る事になります。
史弥遠は1233年に死去しますが、モンゴルは同年に金の首都開封を陥落させ南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて1234年に金は滅亡します。
一時、良好な関係だった南宋とモンゴルですが、南宋が和約に反して開封を奪還した為に、今度は南下するモンゴルの圧力と戦う事になりました。
・賈似道
賈似道は賈渉の妾の子として1213年、台州天台県で誕生しました。
当時の皇帝、理宗の寵妃である姉の働きかけで科挙の予備試験を免除された賈似道は殿試に及第して進士となり、1246年、国境地帯で対モンゴル戦を監督し戦果を挙げていた孟珙の後任として任命された賈似道は湖北に赴任し築城によって国境の防備を固め、勃興してきていたモンゴルの侵攻に備えました。
同年、モンゴル帝国の皇帝モンケ=ハンが四川に進攻し弟のクビライに鄂州、将軍ウリヤンカダイを広西から湖南に進め三方から南宋を攻撃すると賈似道は鄂州の軍事を取り仕切りクビライの攻撃を防ぎ四川の呂文徳と共に鄂州を包囲したウリヤンカダイを攻撃。モンケ=ハンが四川で病没すると、クビライもウリヤンカダイも撤退しました。
モンゴルに勝利した賈似道は1260年臨安に凱旋、丞相として中央政界に参画します。
賈似道は、軍人には厳しい規律を課し、功臣でも容赦なく処分する一方で、文官に対しては過去の過失を問わない柔和な態度で接し協力を得る事に成功。権力は賈似道に集中し、彼は別荘で全ての行政書類を決裁し朝廷は内容も見ずに判を押すカーボンコピーと化します。
しかし、1268年、南宋と元の最前線であった襄陽が元軍の包囲を受けると、弱体化した南宋軍では元に対抗するのは不可能となり権力の失墜を恐れた賈似道は皇帝への戦況報告を握りつぶすなど敗北をひた隠しました。
そして、起死回生の策で元軍司令官バヤンに和睦を提案しますがバヤンは交渉を拒否。賈似道は夏貴、孫虎臣に艦隊を与えて元軍を攻撃しますが丁家洲の戦いで大敗します。
朝廷では廷臣たちが賈似道を極刑に処すように主張し、一度は太皇太后謝氏の取り成しで漳州に流罪と決まりますが、途中漳州の木綿庵で会稽県尉の鄭虎臣に殺害されました。韓侂冑、史弥遠、賈似道に象徴される宰相政治は70年の長期に及び、南宋の歴史のほぼ半分を占めています。
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南宋滅亡と日本の関係
南宋の滅亡に伴い、蘭渓道隆、兀庵普寧、大休正念、無学祖元が鎌倉時代の日本に続々と亡命してきました。
鎌倉幕府執権である北条得宗家は、北条時頼、北条時宗と禅宗僧侶を保護、円覚寺などを開いて布教を奨励し、自身も禅宗に帰依したので禅は武士の教養となっていきます。
同時に南宋からの亡命者である禅僧は、南宋の滅亡とモンゴルの脅威を身近に見聞した者として鎌倉幕府に情報を伝え、これが元寇における鎌倉幕府、ひいては執権北条時宗の対元交渉の指針になった点も大きいでしょう。
また、南宋は紙幣である会子を発行していたので余剰の銅銭が多く日本にもたらされ日本経済の円滑化と活性化に貢献しました。
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南宋の経済
西暦1142年紹興の和議を実現した後、南宋は江南地域の開発に尽力。
囲田や圩田などで耕地を広げ、占城稲の伝来等で農業生産力が高まり、国内人口を食べさせるに十分な食糧生産が可能になります。
それにより米意外にも、中国茶・甘蔗などの換金農作物の栽培が広がりました。換金作物の流通は農家に現金収入をもたらし、消費経済が拡大して他産業の成長を促進。景徳鎮の陶磁器や、絹織物、製紙業、木版印刷なども盛んになります。
巨額になった商取引の決済ツールとして会子という紙幣も流通するようになり遠隔地との取引も盛んになりました。やがて、国内需要を満たした陶磁器、織物、書籍などは金、朝鮮、日本などに輸出され、また東南アジア、インドをへて西アジア、アフリカ、地中海諸国とも交易が行われます。
南宋の都、臨安は世界的な大都市として発展。日本の平清盛や、鎌倉幕府も南宋との日宋貿易を介し宋銭を輸入し、多くの僧侶が宋に学んで帰国後に鎌倉仏教の創始に加わりました。
また南宋で発達した朱子学は日本でも受容され宋学と呼ばれるようになり、その中の「大義名分論」は後醍醐天皇の建武新政の理念となり、幕末には水戸学と融合して尊王攘夷運動の精神的な支柱になります。
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南宋皇帝
南宋の歴代皇帝は以下の9名です。
| 廟号 | 在位年数 | |
| ① | 高宗 | (1127~1162年)
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| ② | 孝宗 | (1162~1189年)
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| ③ | 光宗 | (1189~1194年)
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| ④ | 寧宗 | (1194~1224年) |
| ⑤ | 理宗 | (1224~1264年)
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| ⑥ | 度宗 | (1264~1274年)
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| ⑦ | 恭宗 | (1274~1276年) |
| ⑧ | 端王 | (1276~1278年)
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| ⑨ | 衛王 | (1278~1279年)
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事実上の南宋は、7代目の恭宗の時代に元に降伏して滅亡し、その後の端王と衛王は、亡命政権が擁立した王なので即位しておらず、その為、廟号はありません。
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南宋 最後の皇帝
南宋最後の帝は趙昺と言い、西暦1271年に度宗の七男として誕生します。1276年、南宋の帝都臨安が陥落し恭帝と謝太后は元軍に囚われました。
楊亮節、陸秀夫、張世傑、陳宜中、文天祥などの護衛の下、益王趙昰(趙昺の兄)は福建に逃れ即位。ともに逃れた趙昺は衛王に封じられます。1278年端宗が、船の転覆事故が元で僅か10歳で崩御すると、陸秀夫により碙洲梅蔚にて趙昺が皇帝に擁立されて祥興と改元。
元軍を避けて崖山へと逃れますが、1279年元の張弘範による崖山攻撃が開始され宋水軍は張世傑指揮の下崖山の戦いと称される海戦を開始。しかしこの海戦で宋軍は壊滅。陸秀夫は8歳の趙昺を抱いて入水しここに南宋の残存勢力は完全に滅亡します。
趙昺の最後は、まるで壇ノ浦の戦いで、祖母である二位の尼(平時子)と共に入水自殺した安徳天皇のようですね。
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南宋が弱かった理由
南宋が弱いのは前王朝、唐に原因があります。
唐は財政が傾くと辺境地域の防衛を節度使に丸投げし、節度使はこれをいい事に私兵を集めて軍閥と化していき、次第に唐王朝の命令を聞かなくなり、節度使同士で領土争いを始めます。
宋の太祖、趙匡胤も軍閥であり、クーデターで後周王朝から禅譲を受けて皇帝になった経緯から節度使こそ騒乱の元であるとして、根気強く節度使を説得して兵権を奪い、代わりに山ほどの恩給を与えて懐柔し、次第に兵権を朝廷に集めていきました。
北宋も南宋も趙匡胤のやり方を遺訓として守り、武官に兵権を与える事を危険視し、仮に軍閥のような存在が出来ても、秦檜のように岳飛を罪に落す方法で排除しています。
結果、武官は絶えず文官の下に置かれ不遇で、軍隊は浮浪者や食い詰め者を吸収し仕事を与え犯罪を抑止する役割を果たすのみで士気に乏しく、南宋軍は弱体だったのです。
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中国史ライターkawausoの独り言
以上、岳飛が誕生した南宋がどんな国だったのかを出来るだけ分かりやすく解説しました。この記事を辿ると、どうして岳飛が活躍でき、同時にどうして岳飛が冤罪に落されてしまったのかが、ある程度は分かるのではないでしょうか?
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