この世に男女がある限り、両性が一つ屋根の下で暮らす
結婚という制度は消滅する事がないでしょう。
例え、その姿や儀式は変化しても、その時代、時代で
適当とされる方法を伴い存続していくのだと思われます。
そこで今回は、三国志の時代の結婚事情を紹介します。
この記事の目次
貴族の間で行われた婚礼の儀式 六礼
中国における婚礼の儀式は、はるか周の時代には、完成を見ていました。
結婚は一般に婚といい、制度としては婚礼、婚姻といいます。
士大夫必携の冠婚葬祭マニュアルブックである礼記(らいき)には、
六礼(ろくれい)という結婚に関する取り決めがあり、
少なくても始皇帝による天下統一の頃までには、
完成していたと見て間違いありません。
六礼とは、どのような制度か?
六礼とは、納采(のうさい)、問名(もんめい)、
納吉(のうきつ)、納徴(のうちょう)、請期(せいき)、
親迎(しんげい)の六つの儀式を意味します。
古代の貴族の婚は、この流れにのっとり行われたのです。
まず納菜とは、男性側が仲人を立てて、女性側に贈物をする事です。
この時、贈物を受け取ると婚姻の意志ありとされますが、
儀式なので拒否するケースはまず無かったと思われます。
次が問名ですが、これは漢字の通り、仲人が女性側に向かい、
贈物と招待状を渡して、女性側の氏を訪ねるものです。
儒教の国である中国は、唐の時代頃までは、同族不婚を厳格に守っていて
同じ氏族だと結婚する事が出来なかったのです。
3番目が納吉ですが、男性側が自宅の先祖の廟の前で占いをします。
そして、占いの結果を女性側に伝えます。
4番目が納徴で、これは男性側の占いが吉と出た場合に、
女性側に貴重品などの贈物をし、正式に婚約を結びます。
五番目は請期といい、結婚式の日取りを新郎側が決めて、
新婦サイドに連絡して許可を貰います。
最後が親迎で、新郎と仲人が贈物を持って新婦側に向かい、
新婦側の両親と先祖の祠堂に拝謁し、その後、新婦を花車という、
花で飾った馬車に乗せて新郎の家まで連れて帰ります。
もちろん、この一連の流れが1週間やそこらで出来る筈もなく、
六礼は、とても手間がかかる儀式だったのです。
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生前は二度と実家に戻れない、、女性に厳しい結婚事情
これが六礼の流れで、この儀式の後、三日後に新婦は一度実家に戻ります。
そして、再び、新郎の家に来ると、死ぬまで実家に帰る事は出来ません。
当時の女性の結婚年齢は15歳とか、その辺りなので結婚した女性は
少女の時代に実家との縁が切れてしまうのです。
また死ぬまで実家に帰れないと書きましたが、逆に死ぬと、
その骨は実家の墓に戻されてしまい、夫の墓には入れません。
その理由は、女性は血の補完の為の存在で同族ではないから
という価値観が存在する為だそうです。
後漢の時代に入ると簡略化された六礼、どうして?
しかし、六礼の儀式は後漢の時代に入ると、簡略化されていき、
拝事、三日という簡単な儀式になっていきます。
拝事は、面倒な仲人を介さず、新郎は絹のベールで顔を隠した
新婦を自宅に迎え入れ、新郎が新婦のベールを取ります。
そして新婦は、姑と舅に挨拶をして終了になります。
どうして、婚礼の儀式が、ここまで簡単になったのかというと、
儒教に特有の厚葬の習慣があります。
儒教では肉親が死ぬと、3年とか6年の喪に服し質素に過ごします。
もちろん、その間、お目出度い事は全部禁止という事になります。
もし、3年の喪が明けない間に、また葬式となると再び3年です。
これでは、スムーズに婚礼が行えないので、拝事、三日のような
簡単な結婚の儀礼を済ませてしまおうという考えが生まれたのです。
それに政情が不安定な後漢から三国志時代は、
いつ新郎が徴兵されて戦地に赴くかも分りませんし、
騒乱で故郷が荒れるかも知れませんでした。
そういう事情から、手早く済ませられる簡略化した結婚式が
好まれたという事のようです。
三国志ライターkawausoの独り言
上に書いたのは、貴族や士大夫の知識人階級の話です。
じゃあ、庶民はどうかというと、結婚にあたる言葉は、
奔(ほん)といわれ、意味は偶然の遭遇を意味するようです。
つまり、村の祭りなどで知り合った男女が、
そのまま意気投合してゴールインというような事で
Yes fall in loveなのです。
貴族や士大夫階層の結婚は、本人の自由はなく、
家同士の結びつきを強めるものでした。
親同士が、勝手に段取りを決め、
結婚式の日にはじめて、お互いの顔を見たという
新郎新婦が普通だったようです。
そう考えると、庶民の方が自由恋愛になり、
暮らし向きとかを考えないなら恋愛に関しては、
庶民の方が、より自由な生活だったと言えます。
本日も三国志の話題をご馳走様・・