春秋の五覇の一人に数え上げられる晋の重耳(ちょうじ)は、
歳をとってから君主の座に就きます。
その原因は若い時に晋の国が乱れたせいで、国外に逃亡しなくてはなりませんでした。
そのため彼は、晋の国の君主として立つまで、
10年以上も諸国を放浪することになります。
この時彼に付き従って旅をつづけた家臣は多くいますが、
その中で自分の身を犠牲にして晋の文公を支えた
忠義の化身である介子推(かいしすい)を取り上げたいと思います。
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自らを犠牲にする
史記は介子推がいつ頃から彼に従ったか明記しておりません。
しかし晋の文公に付き従って彼を支えたのは間違えありません。
その証拠として、晋の文公が晋の国を出た際に、彼も付き従って晋の国を出ます。
そして重耳と共に各地を放浪する事になりますが、ある時食料が無くなってしまいます。
そこで彼は自分の太ももを切り取って重耳に与えます。
重耳は自らの肉を切り取った介子推に感謝を伝えて、彼の肉を食べたそうです。
自分の功績を誇らない
このように介子推は自らを犠牲にして、重耳に仕えます。
その後も長くて辛い放浪生活を続けますが、秦の君主の助けを得てようやく晋の国に帰還することがかないます。
こうして重耳は晋の国の君主として擁立され、晋の文公となります。
その後晋の文公は、自分が放浪の旅を続けていた時に付き従ってくれた家臣たちに
褒美を与えます。
ある家臣は自らの功績を誇らず、自分に多くの過失があったと文公に言います。
しかしこのやり取りを聞いていた介子推は「あいつは自分を謙遜してあんなことを言っているが、
褒美がほしいと意思表示しているのと同じだ」と怒ります。
そして介子推は「こんな卑しい人と一緒にいるのは御免だ」と言って
文公の元を去っていきます。
文公から何の報いもない
こうして晋の文公は自分と共につらい旅を味わった配下達にねぎらいの意味を込めて、
領地や爵位を与えていきますが、
介子推には一切褒美を与えることはありませんでした。
介子推も自分の事をアピールせず、文公の元を去っていきます。
介子推の従者が張り紙を貼る
介子推の従者は、介子推が一生懸命文公の為に尽くしてきたのに、
何の褒美も与えない事に激怒し、ある張り紙を貼ります。
その張り紙に書いた内容は「龍は天に上るために五匹の蛇が助けます。
四匹の蛇は龍から報いてもらうことができたが、一匹の蛇は何にももらえず
龍の元を去った。」との内容です。
この張り紙の内容は晋の文公が放浪の旅をしていた時、
五人の家臣が必死に彼を助け、晋の国主になった時、
四人は文公から褒美をもらい満足しますが、
一人(介子推)だけが何ももらえないという意味です。
この内容を知った文公は介子推が籠っている山を彼に与えることにします。
そしてこの山を「介山(かいざん)」と名付け、彼の領地とします。
介子推を偲ぶまつりがあった
十八史略(じゅうはちしりゃく)と言われる歴史書には、
介子推は文公の元を去って山にこもりますが、
その後文公は介子推が籠った山に火を放ちますが、
文公は介子推が逃げられるように、
山の中にある一本の道には火が燃え広がらないようにします。
この時介子推は山から下山せず、
そのまま一本の木の下で母親と共に焼け死んでおりました。
その後介子推を偲ぶことが風習化され、
清明節(せいめいせつ:旧暦の2月頃~3月後半)の前日には、
中国の人々は家の戸口に柳の枝を指して、介子推の魂を呼び寄せていたそうです。
この風習を寒食節と言います。
この寒食節は今日の中国では行っている人はほとんどいません。
三国志ライター黒田廉の独り言
春秋五覇の一人に数え上げられる偉大な君主であった晋の文公ですが、
自分に身をもって忠義を尽くしていた人材に何も報いることをしなかったのは、
最大の汚点であると思います。
自分に何も報いなかった文公の悪口を言わず、
晋の文公の元から去った介子推はかなりの人物であったと思われます・
それにしても誰かに言われるまで、
晋の文公は介子推の事を思い出さなかったのでしょうか。
これは一つの事を物語っている証拠であると思います。
名君と言われた文公ですら功績のあった臣下に報いることをしなかったのであれば、
現在の会社などでは自分の手柄をアピールして、
上司に功績を認めさせたほうが昇進につながるのではないでしょうか。
過度なアピールは禁物ですが、
少しくらいはアピールして印象をづけたほうがいいのかもしれませんね
「今回の春秋戦国時代のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじさんでお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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