三国志で最大の国土を有することになった魏の曹操(そうそう)。
彼は青年の時、三国志時代のインフルエンサー・許子劭(きょししょう)から
「君は清平の奸賊、乱世の英雄である」と評価を受けます。
しかし曹操は本当に英雄であったのでしょうか。
この記事の目次
- 英雄とは
- 英雄の定義
- 曹操は英雄であったのかその1:既存の物を壊して想像した人物なのか
- 既存の人材登用方法を無視した、新たな登用方法「求賢令」制定
- 求賢令とはいったいどういう制度
- 英雄の定義その2:カリスマ性があり、人を引き付けてやまない人物
- カリスマ性に富んでいた実績
- 英雄の定義その3:多彩な能力を持っており、戦にも強かった(個人の武ではなく、政略・戦術で優れていた)人物
- 1:曹操は多彩な能力を有していたのか
- 2.戦にも強かった(個人の武ではなく、戦術で優れていた)人物
- 67戦58勝
- 英雄の定義その4:史家からの視点で英雄であったと評価をもらっている人物
- 陳寿の評価
- 中華民国の文学者「魯迅」の評価
- 曹操は英雄たり得るのか…
- 三国志ライター黒田廉の独り言
英雄とは
曹操が本当に英雄であったかを検証する前に、英雄の定義について説明しなくてはなりません。
皆さんが考えている英雄とはどういったものなのでしょうか。
強くてかっこよくて背が高いなど色々な定義を持っている方が多いと思います。
しかしばらばらな定義を持っていると収拾がつかなくなるので、
今回は私が考えた英雄の定義で曹操が英雄なのかどうかを検証していきたいと思います。
英雄の定義
私の英雄の定義は
1既存の物を壊して想像した人物なのか
2カリスマ性があり、人を引き付けてやまない人物。
3多彩な能力を持っており、戦にも強かった(個人の武ではなく、戦術で優れていた)人物
4史家からの視点で英雄であったと評価をもらっている人物
上記の4点を持って3つ以上あてはまった場合、英雄にしたいと思います。
あくまでも私の視点での英雄の定義であるため、お気に召さないと思いますが、
気になった方のみに読んでいただければと思います。
曹操は英雄であったのかその1:既存の物を壊して想像した人物なのか
まず私の英雄の定義である既存の物を壊して
想像した人物に曹操が該当するのか、調べてみましょう。
曹操は既存の文化を破壊して想像した三国志の中でも唯一の人物ではないのでしょうか。
既存の人材登用方法を無視した、新たな登用方法「求賢令」制定
後漢時代の人材登用方法の主なものは「孝廉(こうれん)」と「辟召(へきしょう)」と
呼ばれる登用方法がありました。
孝廉は一年に一回厳正な選挙で選ばれた人材が推挙され、朝廷に仕える事になります。
また辟召と言われる登用方法は、朝廷に仕えている三公九卿や大将軍などの政府高官や
地方高官である県令や太守といった人々が自らの部下を増やすために、
人材を選んで召し抱えることのできる制度です。
これらの制度は能力があって品行方正もしくは知名度の高い人物が次々に仕える事になります。
また辟召は地方の実力者達が太守などに口添えして、
朝廷に自分の息のかかった人材を送り込んで人脈を広げようとしておりました。
こうした理由から能力の有無よりも、豪族の息のかかった人材や名声のみが高く、
たいした能力のない人物などが中央へやってくることになります。
そのため曹操は後漢で使われていた人材登用方法を廃止して、
公平な法の元で人材を登用しようと考え、
能力があれば誰でも登用する新しい人材法である「求賢令」を制定します。
求賢令とはいったいどういう制度
曹操が制定した求賢令はいったいどのような制度なのでしょうか。
ざっくり説明しますと殺人者や人の者を盗んだことのある人など法に触れたことのある人物でも
能力さえあれば召し抱えてやるといった制度です。
後漢の人材登用方法である官僚登用方法である辟召・孝廉は
朝廷に魏の領土を支える地方官の部下を集めるにはそれなりの成果を出すことができる
人材登用法でありました。
しかし中央政府に人材を集める場合、孝廉の様な人材登用法を用いていれば、
人は集まってこないし、
集まってきた人材が果たして優秀な人材で仕事ができるのかこの点に疑問を覚えます。
そのため曹操は、犯罪者や人殺しであっても能力さえあれば仕える事のできる採用方法を用います。
この採用方法だと「孝廉」のように一年に一回集まってくる人材を待つよりも、
スピーディに人材を集めることができます。
また犯罪者は一度犯罪を犯すと官への出仕はほとんど絶望的な状況でした。
しかしこの「求賢令」はそんな人でも能力さえあれば官へ再弛緩人材を活用することができ、
優秀な人材を多く集めることができるのではないのでしょうか。再仕官することができるので、
優秀な人材は多く曹操の元へ集まってくることになります。
この「求賢令」は曹操が既存の物を破壊して新たな物取り入れた一例と言えるでしょう。
英雄の定義その2:カリスマ性があり、人を引き付けてやまない人物
二つ目の英雄の定義であるカリスマ性があり、人を引き付けてやまない人物。
曹操は果たしてこの定義に当てはまる人物であったのでしょうか。
今回はこのことについて述べていきたいと思います。
カリスマ性に富んでいた実績
曹操は政治・文学・軍略などあらゆる方面において優れていた人物で、
彼の元には多くの人材が集まってきます。
また敵であった者も曹操の魅力にひかれて、味方になったものもおります。
その代表例として有名なのは賈詡(かく)と言えるでしょう。
彼は一時期曹操を追い詰めたことのある人物ですが、
ある時期を見計らって主君である張繍と共に曹操へ降伏します。
張繍は曹操と袁紹が決戦を行う時期に差し掛かると、袁紹へ味方しようと考えます。
しかし賈詡は張繍へ「今曹操は袁紹との兵力差を埋めるために、
いろいろな手を打っているはずです。
そこでまとまった兵力を持っている我らが降伏を曹操へ申し入れれば間違えなく、
優遇されるはずです。」と進言します。
この時賈詡の進言を聞かずに袁紹と同盟を結んで曹操を攻撃することもできたのですが、
賈詡は大勢力である袁紹と手を結ぶことはせずに、弱小勢力であった曹操へ降伏するように
主を促します。
この時賈詡が曹操に魅力を感じていなかったら、敵対していた曹操へ降伏するべしと進言を
しなかったはずです。
彼が曹操に魅力を感じていたからこそ張繍へ曹操に降伏するように提案し、
張繍も曹操へ感じる物があったからこそ、降伏することに決めたのでしょう。
上記が曹操が人材を引き付けてやまない例として、
私が挙げた英雄の定義に当てはまるのではないのでしょうか。
英雄の定義その3:多彩な能力を持っており、戦にも強かった(個人の武ではなく、政略・戦術で優れていた)人物
曹操はカリスマ性を持って、中国各地から様々な人材が彼の元へ集まってきます。
また敵であった者でも彼は能力に秀でていれば、用いています。
このように公平な人材登用を行い既存の登用制度を真っ向から否定する姿勢を見せ、
新たな物を生み出しております。
こうして英雄の定義である二つをクリアした曹操ですが、
三つ目の定義である3多彩な能力を持っており、
戦にも強かった(個人の武ではなく、政略・戦術で優れていた)人物だったのでしょうか。
この条件は2つ重なって一つの条件となっているので、一つずつ検証していきたいと思います。
1:曹操は多彩な能力を有していたのか
まず英雄の定義のその3の一つである多彩な能力を曹操が、
有していたのかどうかを調べてみました。
彼は結果から先に述べると、三国志に登場する群雄の中で一番多彩な能力を持った人物でした。
詩に強い関心を持っており、戦や政治などで非常に忙しい毎日を過ごしておりましたが、
少しお暇を見つけると詩が上手い配下を呼んできて、詩に興じておりました、
また詩人としても優れており自ら優れて詩人を配下に加えて、
後漢王朝の最高権力者となったときに彼らを庇護して、5言詩からなる文学を築き上げます。
曹操が庇護する前の文学は儒教などの型に囚われて詩文を製作しておりましたが、
曹操が建安文学を立ち上げてからは、型に囚われず、自由に詩文を製作させることで
多くの秀逸な文学が世の中に解き放たれることになり、後世にまで多くの文学者の名が
残ることになります。
ほかにも彼は兵法書である「孫氏」の兵法書に注訳をつけております。
彼がつけた孫氏の注訳書の事を「魏武註孫子」と言われ、
現在私たちが目にしている孫氏の兵法書は曹操が注訳を付けている物がほとんどです。
こうして曹操は後世に居る私達にも影響を及ぼしております。
私は上記の実績から曹操が非常に多彩な能力を持った人物であると思いますので、
3番目の英雄の定義の1である多彩な能力を有していた人物である点をクリアしているものと
見なしたいと思います。
2.戦にも強かった(個人の武ではなく、戦術で優れていた)人物
曹操は身長が小さくちびで個人的な武があまりないように思われがちですが、
実はかなりの武芸者でありました。
強弓を引くことができ、空を飛んでいる無数の鳥を射落とすことが出来るほどの弓の達人です。
また剣術の腕前にも優れており、数十人の兵士を一人で切り倒したことがあります。
しかし彼ほどの武をもってしても、個人の武で見れば三国志最強の呼び声高い呂布(りょうふ)や
長坂の戦いで逃げる劉備軍の殿を少数の兵士を率いて、
大軍である曹操軍の前に立ちはだかった張飛などの豪傑に比べれば見劣りすることでしょう。
しかし今回の英雄の条件は個人的な武の強さではなく、戦術面で優れているのかが
重要なため、個人の武はあまり関係ありません。
では戦術面において曹操はどの程度優れていたのでしょうか。
67戦58勝
曹操は後漢の混乱期に群雄として立ち上がった人物であり、
小さい戦から大きな戦まで様々な戦を勝ち抜いてきた歴戦の将軍です。
彼はその生涯をほとんどと言っていいほど戦でしたが、
戦いの数は67戦と言われております。
この67戦の間で勝った数はなんと58勝とされており、ほとんどの戦を勝利で彩っている名将と
言っても過言ではないのでしょうか。
また彼はこの58勝のほとんどを劣勢の状態から挽回しての勝利であることです。
劣勢の状態から始まった戦を挽回するには、戦術面で優れていないとまず無理であると思います。
この戦歴を超える群雄は三国志が終焉を迎えるまで誰も破ったことのない記録であり、
リアル無双を行った強い人物であることは間違えありません。
そして私が掲げた英雄の定義にバッチリ当てはまります。
英雄の定義その4:史家からの視点で英雄であったと評価をもらっている人物
さて英雄の定義最後の一つは史家からの視点で英雄であったと評価されている人物です。
曹操はその死後歴史家たちから果たして、
英雄という評価をもらっているのか調べていきたいと思います。
陳寿の評価
正史「三国志」を執筆した歴史家である陳寿は、いったいどのように曹操を評価したのでしょうか。
陳寿は「曹操は知略と法治において優れていた人物である。また人材を適材適所に配置することで、
彼の配下達は大いに能力を発揮させており、乱世に必要な人物で時代を超えた英傑である」と
ものすごく高い評価を彼に与えております。
このような高い評価得ていた曹操ですが、羅漢中が書いた「三国志演義」が世に出回り始めると、
三国志演義において悪者扱いされてしまい、ごく近年まで彼は悪者扱いを受けておりました。
しかし一人の文人が彼の評価を大きく変えることになります。
中華民国の文学者「魯迅」の評価
「阿Q正伝」の著者である魯迅は、長い間三国志演義で悪者として扱われていた、
曹操を改めて評価しております。
彼は「三国志で有名な魏の曹操ですが、
彼は三国志演義のような残虐性を持っていた悪者として彼を見ることは正しい見方ではありません。」と
自らが書いた書物に記しております。
そして彼は「短い期間で滅んだ王朝の初代君主は大体悪く書かれている。
その代表的な例は秦の始皇帝です。秦も天下統一という偉大な業績を残しておりますが、
短命な王朝であったがゆえに、悪く書かれてしまいます。
曹操もまた始皇帝と同じように欠点を大々的に挙げられているために悪い人物のように、
伝わってしまっているのだと考えます。欠点も多い曹操だが、多彩な才能を持った
英雄と呼ぶにふさわしい人物であろうと思うと同時に、私は彼を尊敬しております。」と述べます。
陳寿と魯迅二人の偉大な人物が曹操をこのように高評価をしており、
私が挙げた英雄の最後の条件にあてはまるものだと考えます。
曹操は英雄たり得るのか…
曹操は私が挙げた条件をすべてクリアしていることから、彼を三国志の君主の中の英雄として
認定したいと思います。
三国志ライター黒田廉の独り言
曹操は私が勝手に決めた英雄の条件にすべて当てはまっているので、
彼を英雄に認定させていただきました。
しかし読者の皆さんにはそれぞれ英雄の定義というものをお持ちになっているので、
気に入らないか部分もあると思います。
ですが誰が英雄たり得るのかを考えながら、特定の人物を追っていくと歴史はさらに深みを増すのではないのでしょうか。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
じかいもまたはじさんでお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~」
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