島津義弘(しまづよしひろ)は関ヶ原の戦いが終わるとたった数百人の人数で、故郷である薩摩(さつま=現在の鹿児島県)へ帰還すべく敵中突破を敢行。
この突撃には島津家久(しまづいえひさ)の息子である豊久も参戦しておりました。彼は現在ドリフターズと言われる漫画の主人公となっており、人気を博しております。しかし史実ではほとんど知らない人が多い武将であり、一体どのような武将であったのかほとんど知らない人が多いのではないのでしょうか。
彼がどのような人物であったのかを今回はご紹介したいともいます。
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ヒューマンハンター島津家久の嫡男
戦国時代島津家で有名武将といえば島津四兄弟でしょう。長男を島津義久(しまづよしひさ)、次男を島津義弘(しまづよしひろ)、三男を島津歳久(しまづとしひさ)、四男を島津家久といった兄弟たちです。彼らは長男義久が父貴久の跡を継いで島津家当主に就任すると三男歳久は兄義久と共に内政を支え、次男義弘と四男家久は島津家の領土拡大を行っていきます。
四男の島津家久は非常に戦が巧く島津家のお家芸と言える捨てがまりの戦法を駆使して敵将を何人も討ち取っております。
そしてこの戦上手な家久の嫡男が島津豊久です。豊久も父家久の戦上手の血を受け継いでいるのか戦が上手で、初陣である沖田畷の戦いで(おきたなわてのたたかい)で武功を手始めに島津家の九州制覇戦で数々の武功を挙げていくことになります。
父死す
こうして数々の戦で武功を挙げてきた豊久ですが、彼にとって大事件が勃発します。その事件とは父家久の死です。
九州制覇戦は豊臣軍の圧倒的兵力と物量差を見せつけられた島津家は豊臣秀吉に降伏。
父家久は秀吉の弟である豊臣秀長(とよとみひでなが)の元へ挨拶に行った後に亡くなってしまいます。彼がなくなった理由は様々ありますが未だに判明してないのが実情です。豊久は父が亡くなったことで父の所領である佐土原の領地を継ぐことになり、父の兄であった義弘に教育されていくことになります。
関ヶ原の戦い
島津家は豊臣家に降伏した後、朝鮮の役で目覚しい活躍をします。
この戦にも豊久は参戦しており、大いに活躍をして武功を挙げております。そして天下人豊臣秀吉が亡くなると文官派筆頭の石田三成と武官派との政争が始まります。この政争は豊臣家内部を二分してしまうほどの争いとなってしまい、この争いに乗じて天下の覇権を握ろうと考えたのが徳川家康です。
三成は徳川家康が豊臣家の天下を奪おうと考えていることを察して、自ら諸大名を集めて徳川家康と戦で決着を付けようと考えます。そして家康も上杉討伐を口実にして豊臣家の反徳川勢力を駆逐しようと考えます。
こうして両者の思惑は戦へ集約され、天下分け目の大戦である関ヶ原の戦いが勃発することになります。この時島津家は義弘自ら兵を率いて徳川家が篭城している伏見城へ入城しようと考えておりました。
しかし東軍は島津家の入城を拒否。そのため義弘は西軍に渋々参加し、関ヶ原の戦いに参加することになります。豊久は義弘に従って関ヶ原の戦いに参加しております。
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敵中突破の退却
義弘率いる島津軍1500人は関ヶ原の戦いに参加することになるのですが、積極的に戦いに参加しませんでした。その理由は島津軍の兵力の少なさが大きな原因であると考えます。
島津軍1500人が積極的に参加しても東軍の軍勢に包囲されてしまう危険性が有ったために戦に積極的に参戦することはせずに島津軍に攻撃を仕掛けてきた軍勢に対してのみ、攻撃を仕掛けるような戦いしかできませんでした。
このような戦いを続けること数時間。西軍は小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって壊滅。こうして関ヶ原の戦いは東軍の勝利に決まることになります。
そんな中島津軍の総大将である義弘は豊久へ「敵中を突破して薩摩へ帰還する。今こそ薩摩隼人の意地をみせよ」と言って島津軍に命令を下します。そして島津軍は敵中を突破して退却を開始することになります。
壮絶・鳥頭坂の退き口
島津軍は福島正則(ふくしままさのり)の隊を横切って、故郷へ向けて退却を開始します。この時島津軍は数百人ほどに減っておりました。
この島津軍を追撃したのは徳川軍きっての精鋭部隊である本多忠勝(ほんだただかつ)と井伊直政(いいなおまさ)の部隊です。この二つの部隊は島津軍に猛攻をかけていきます。
義弘と共に関ヶ原の戦いに参加していた長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)は義弘を逃がすために自ら囮となって討ち取られてしまいます。豊久も必死に追撃を防ぎますが、徳川きっての精鋭の追撃は急で中々逃げ切ることはできません。
そんな中総大将義弘は「豊久。わしはここで腹切って死ぬ。」と弱気な姿勢を見せます。この義弘の言葉を聞いた豊久は「叔父上。ここで腹切って死ぬのはなりません。叔父上さえ逃げ切ってくれれば薩摩は安泰です。だからここで薩摩の兵士達が全員討ち死にしたとしても叔父上だけは逃がさなければなりません。私が殿に立って敵を防いでまいります。その間に逃げてくだされ」と言って殿へ向かいます。
豊久は数十人の兵士を連れて父家久が得意とした捨てがまりの陣を敷きます。この陣へ攻撃を仕掛けてきたのは井伊直政隊で、捨てがまりの戦法を受けたことにより直政は傷を負い後方へ下がっていきます。
そして豊久は奮戦して幾人もの直政隊の兵を倒していきますが、最後は数人の兵士に囲まれて何度も槍を体に突き立てられて亡くなってしまいます。しかし豊久の殿によって義弘はなんとか危機を脱することになり、薩摩へ帰還することに成功します。
この戦いを鳥頭坂の退き口(うとうさかののきぐち)と後年言われることになります。
戦国史ライター黒田廉の独り言
豊久は自らの体に槍を受けて何度も宙を舞い、地に叩きつけられながら実は生きていた説もあります。だけど彼は義弘を追いかけていくのですが、その途中で亡くなってします。
豊久の壮絶な殿がなければ島津義弘は薩摩に帰ることができずに亡くなっており、薩摩藩もどうなっていたかわかりません。もしかしたら徳川家によって取り潰されていたかもしれないと考えると豊久が行った行動はその後島津家を安泰に導いた賞賛値する行動ではないかと思いますが、皆様はどのように思いますか。