武田勝頼の自信を信長・家康連合軍に打ち砕かれた長篠の戦い

2017年3月16日


 

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武田勝頼は順調に領土を拡大していくことに成功し、父信玄の時代よりもはるかに広大な領土を

得ることに成功します。

また武田信玄が陥落することができなかった高天神城を陥落させることにも成功しており、

勝頼が武田信玄を超えたと自信を持っておりました。

この自信をもって勝頼は信長と徳川連合軍を打ち破ろうと考えておりました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長篠城も簡単に落としてやるぜ!!

 

武田勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう)を

陥落させたことでかなりの自信を持ちます。

自信に満ち溢れていた勝頼は三河(みかわ)の徳川家康に奪われた長篠城を奪い返すべく、

再び出陣します。

彼は1万5千の人数で長篠城を包囲。

対する長篠城の軍勢はたったの500人だったそうですが、

勝頼はこの長篠城を陥落させることができませんでした。

圧倒的な戦力差にも関わらずなぜ落とすことができなかったのでしょうか。

 



レンの考察

 

廉の考察ですが、勝頼は長篠城をわざと陥落させなかったのではないかと思います。

勝頼は長篠城救援のため、織田軍向かっていることを知っていたのではないのでしょうか。

もし知っていたとするならば勝頼は長篠城を餌にして、

徳川軍を戦場に引っ張り出そうとしていたと考えるのは不自然でしょうか。

長篠城を陥落させなければ徳川軍は長篠城の救援を行わなければならいからです。

そのため勝頼は徳川軍を戦場へ引っ張り出すために、

長篠城をかんらくさせなかったと考えれます。

 

勝頼の読みが外れる

 

勝頼は長篠城で本隊と別働隊に分けることにします。

彼が武田軍を分けたのは徳川軍が一向に戦場に出ないため、

本隊を率いて徳川の城の近くの田畑へ火をかけたりして挑発。

しかし徳川家康は田畑を火で燃やされても城から打って出て武田軍と戦おうとしませんでした。

家康は信長率いる救援軍が来てくれることを爪を噛みながら待っておりました。

 

織田・徳川連合軍長篠へ

 

徳川家康はずっと武田軍の挑発に乗らないで我慢しておりました。

そのかいあって信長がついに岡崎城(おかざきじょう)へ到着。

その後家康は信長軍と合流して長篠へ向かって出陣します。

さて織田・徳川連合軍が結成された頃、勝頼は何をしていたのでしょうか。

彼は徳川家康が戦場に出てこないため、別働隊と合流して長篠城へ総攻撃をかけます。

しかし長篠城は織田・徳川連合軍すぐ近くに来ていることを知り、

籠城軍の士気は大きく上がります。

そして長篠城籠城軍は武田軍の攻撃を受けても必死に防戦して戦い抜きます。

勝頼は1万5千の人数を率いて長篠城を攻略できないとなれば彼の名誉に関わります。

そのため猛攻を加えますが、長篠城を落とすことはできませんでした。

そうこうしているうちに織田・徳川連合軍が長篠に到着していることを知ります。

 

重臣達の反対を押し切って決戦へ

 

勝頼は長篠に織田・徳川連合軍が駐屯している事を知ると会議を開きます。

もちろん会議の内容はこのまま連合軍と決戦をするのかしないのかを決める会議です。

この会議で信玄以来の重臣である山県昌景・馬場信春・内藤昌豊などは決戦へ

向かうことに反対します。

その原因は兵力が連合軍と武田軍の差が激しくこのまま戦っても勝てる可能性が少ないからです。

しかし勝頼は重臣達のビビリ具合にイラっとします。

そして会議の意見が出揃ったところで彼は高らかに「あす織田・徳川連合軍と決戦を行う」と宣言。

重臣達は勝頼の宣言にどのようなことを思っていたのでしょうか。

 

勝頼の自信は打ち砕かれた・・・・長篠の戦い(設楽原の戦い)

 

勝頼は長篠へ武田全軍を集結させてあすの戦いに備えます。

彼は織田・徳川連合軍を打ち破って近隣の諸大名へ勝頼の名前を響かせるとともに、

信玄以来の重臣達へ自らの力を認めさせようと考えておりました。

こうして運命の戦いが勃発することになります。

勝頼は全軍に攻撃を命じると武田軍は連合軍へ向かって突撃していきます。

しかし連合軍は馬防柵を隙間なく敷いてその内側から鉄砲で攻撃。

この攻撃の為武田軍は一度退却して鉄砲を防ぐ竹盾を並べて再び進軍を開始しますが、

馬防柵を壊すことは容易ではありませんでした。

馬防柵を破壊しようとする武田軍。

馬防柵の内側に武田軍を入れまいと必死になって鉄砲を撃ちまくる連合軍。

両者は馬防柵の挟んで熾烈な攻防戦を展開します。

この攻防戦のさなか武田軍の重臣であった山県昌景が討ち死にし、

真田信綱(のぶつな)・昌輝(まさてる)兄弟、内藤昌豊など多くの重臣達が討ち死にしていきます。

このため武田軍は内側から崩れていってしまい、親族衆達はいち早く戦場から脱出していきます。

勝頼は天下一強い兵だと思い込んでいた自軍がボロボロになっていくさまを見て、

放心状態になってしまいますが、馬場信春が彼を叱咤したことでなんとか戦場から離脱。

そして馬場信春は勝頼を逃すために少ない人数で殿を行って、

討ち死にしてしまいます。

こうして長篠の戦いは武田軍の惨敗で終わってしまいます。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

武田勝頼は織田・徳川連合軍に惨敗。

この戦いで自らの自信は打ち砕かれてしまい、信玄以来の重臣達も大方討ち死にしてしまいます。

そして勝頼率いる武田家はこの長篠の戦いを境に一気に弱体化していくことになります。

 

参考文献 武田勝頼 柴辻俊六著

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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