※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。
人間は白い壁を見ると落書きしてしまうものなのか?
はたまた人の創作意欲に広々した壁は最適だとでも言うのでしょうか?
海岸の防波堤には低レベルな落書きからプロ顔負けのアートまでが並んでいますし
アーケード商店街だと、カラースプレーで描いた落書きなども見られます。
いかにも最近から始まったようなイメージの壁への落書きなのですが、
そのような壁に文字を書く行為は、実は、三国志の時代から存在していたのです。
三国志の時代の城壁は広報の役割をも果たしていた
三国志の時代、紙は発明されていましたが、まだ竹簡や木簡と並立している過渡期です。
当時の貴族階級である曹操(そうそう)でさえ、詩を書くのに書刀と木簡を
常備していますから、まだまだ、木簡の需要は高い時代であると言えるでしょう。
木簡は失敗しても削って直せる便利なアイテムですが、サイズは短冊レベルしかなく、
大勢の人に一度に情報を伝達するのには不向きでした。
そこで、目を付けられたのが城の白壁です、壁に墨書すれば大きな文字を書けて
道を通る人が全て見る事が出来るのです。
本当に壁に墨書されていた証拠があるのか?
さて、いかに壁に文字を書けばよく見えると言っても、今のままでは想像です。
それを裏付ける物証が必要だと言えるでしょう。
ところが、すでにその物証はあります、それはエチナ河流域の漢の時代の遺跡、
敦煌懸泉置(とんこう・けんせんち)の駅舎の壁に元始五年(紀元5年)の詔勅や、
政令や処方箋の類が墨跡も鮮やかに残っている事が分っているのです。
参考文献:漢帝国と辺境社会 長城の風景
著者: 籾山 明 出版社: 中央公論新社
また、出土木簡に以下のような事を壁に墨書するように命じたモノもあります。
扁書亭 燧顕処 令尽諷誦知之 精侯望 即有蓬火 亭燧回度挙、毌必
訳:亭燧の目立つ所に掲げてすっかり暗誦し、周知徹底させよ。
見張りをぬかりなく、もし蓬火が挙がったら亭燧は応答して挙げ抜かりなく・・
扁書というのが壁に大書するという意味で、これは異変があった時に、
挙げる蓬火についての規定で、大事な事なので狼煙台である塢の白壁に墨書した
規定であると考えられています。
三国志の時代は、宮殿に飾る書も全て墨で書いていた
また、三国志の時代には、石に文字を彫る事はあっても、
木に文字を彫る事はなく宮殿に飾る額などにも、直接に墨で文字を書いていました。
魏の明帝(曹叡)の時代に仕えた韋(い)中将は、書の名人で新宮殿が完成した時に、
ハシゴを使って額に書を書きましたが、その為に髪は真っ黒になったそうです。
それは墨が垂れた事を意味しているので、韋中将は、天井にでも書を書いた
という事かも知れません。
普通に考えると、平地で書いて、乾いてから高い位置に飾ればいいのに・・
等と考えてしまいますが、きっと、何か決まりがあったのでしょう。
東晋の王献之(おうけんし)の父は書聖として知られる王羲之(おうぎし)でした。
父親に似て、彼も書画が巧みだったようで、太極殿が完成した時に
書を頼まれて渋々書いて、門外に掛けよと命じると、宰相の謝安(しゃあん)が来て、
「どうせなら殿上に飾るといい、魏の韋中将もハシゴに上り
殿上で書いたケースがあるから」と勧めると
「そんな事をするから魏は早く滅んだのだ」と言って断ったそうです。
書家を墨塗れするような国家は、長持ちしないという意味なのでしょうか?
参考文献:中国社会風俗史
著者: 尚秉和 出版社: 平凡社
水滸伝には、酒楼の白壁に漢詩を書く習慣が見られる
三国志よりは、ずっと後の時代、明の時代に成立した武侠小説である水滸伝には、
主人公の宋江(そうこう)が酒楼で飲み過ぎ、お店の壁に漢詩を書く描写があります。
そのお店では、漢詩の素養がある人に壁を開放しているようで別に嫌がらず、
宋江以外にも酔客が墨書した漢詩がそこらにあるのです。
こうして見ると、白壁に墨書するという習慣は、中国では特に奇異なモノではない
そのように考える事が出来ると思います。
【シミルボン】あちこちにスローガンが一杯?賑やかな三国志時代の壁
の続きは、「シミルボン」内のページで読めます。
続きが気になる方は、「シミルボン」にアクセスしよう!