ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志五世太尉」のコーナーです。
前回は楊家の筆頭である楊彪が、袁術の義理の弟であるにもかかわらず董卓に殺されず、
逆に重用されたというお話をお伝えしました。
四世太尉の名門・楊家は生き延びたのです。
すると次に気になるのは、五世太尉が実現するのかという点です。
楊彪の息子は楊脩(楊修:ようしゅう)です。
エリートの中のエリートである楊脩ははたして三公の位に就くことができたのでしょうか。
今回は楊脩について語っていきましょう。
前回記事:楊彪(ようひょう)は袁術の義弟なのになぜ董卓に殺されなかったのか?
天才・楊脩(ようしゅう)
楊脩が朝廷に出仕するようになったのは25歳の頃だったようです。
ちょうど父の楊彪が三公の太尉についていました。
献帝は長安を脱出し、曹操の加護のもと許に都を移しています。
当初曹操は楊彪を名誉職だが閑職である太傅に就けようとしていました。
そして空いた太尉に冀州の袁紹を就け、自らは大将軍に就任するつもりだったのです。
しかし袁紹はその提案を断ります。太尉は大将軍の指図を受けることになるからです。
困った曹操は大将軍を袁紹に譲り、自らは司空となり、楊彪は元通りに太尉にしました。
楊彪は息子の楊脩を献帝の傍に付けることを決断します。
献帝は喜びました。楊脩の評判は耳にしていたからです。
楊脩は幼少から万巻の書を読破し、詩文の才も群を抜いていました。
楊脩は献帝の侍臣として出仕すると、その仕事ぶりを荀彧に認められます。
さすがは天才の楊脩です。仕事もよくできたようです。
なにせ楊家と袁家のサラブレットですからね。
禰衡(でいこう)に絶賛される
楊脩が作成する書類は古書の引用も巧みで誰をも納得させる素晴らしいものでした。
曹操の無理難題も荀彧の代わりに返答し、曹操を納得させたといわれています。
禰衡は三国志史上最強の毒舌家ですが、孔融(こうゆう)とこの楊脩だけは認めていました。
しかも楊脩の場合は直接会ったこともないのです。
楊脩の作成した文書を一目見ただけでその才を認めたそうです。
ちなみにこの禰衡は楊脩の上司の荀彧に対し、弔問使くらいにか使えないと言い放っていますし、
郭嘉や程昱などまったく相手にもしていません。
そんな中で若い楊脩が認められるということは、
その文章がよほど立派なものだったことを示しています。
さらなる出世
曹操が袁紹を滅ぼしてから楊脩はその才をさらに発揮し、丞相付きの主簿となります。
軍事や国政など次々と浮上する問題を楊脩は取り仕切って解決していきます。
その名声を聞いて楊脩と親交を結びたがるものが増えてきました。
筆頭は曹操の息子である曹丕や曹植です。
特に曹植は楊脩の才を絶賛しており、「キミに数日会わないのも我慢できない」
というようなラブレターを楊脩に送っています。
楊脩も曹植の才を愛していたようで、二人は相思相愛になります。
しかしそれが楊脩の破滅を招くことになるのです。
曹植は曹操の後継者となるために楊脩に相談するようになります。
楊脩も親身にそれに応えました。
曹操は最終的に太子を曹丕に決定します。
そうなると楊脩は曹植を擁立して反抗してくる可能性もあります。
楊脩が曹丕の敵に回れば国は二つに分かれることになるのです。
そして楊脩の才覚を持ってすれば曹丕を上回ってくるかもしれません。
曹操は楊脩の処刑を命じます。
理由は西暦219年の劉備との漢中を巡る戦いで、勝手に撤退の準備を進めたためだそうです。
曹操が漢中攻防の際にふと呟いた「これは鶏肋だな」という一言に楊脩は敏感に反応したのです。
関連記事:後継者争いは出来レース?曹丕が皇帝に就くことは生まれる前から決まっていた
関連記事:曹操の後継者問題で判断に迷ったのは儒教と文学に原因があった?
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
もし楊脩が後継者問題に出しゃばらなかったら、曹操に処刑されることもなかったでしょう。
そして曹丕の時代になって三公に就任していたはずです。
「五世太尉」は実現可能だったことになります。
しかしあまりに鋭敏な才が楊脩に破滅をもたらすことになってしまいました。
曹操はそのすぐ後に病没しますが、
その前に最大の懸念を解決しておきたかったのではないでしょうか。
皆さんはどうお考えですか
関連記事:董卓が築城した要塞が絶対防御すぎてヤバイ!郿城(びじょう)とは何?
関連記事:極悪人の董卓の参謀・李儒は董卓以上の悪人だったの?
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—