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城濮の戦いとはどんな戦い?晋の文公が覇者たる地位を手に入れることになった戦い

2017年4月20日


 

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晋の文公(しんのぶんこう)となった重耳(ちょうじ)。

彼は春秋の五覇の一人に数えられる名君として歴史に名を残すことになります。

だが春秋の五覇になるまでの道のりは辛く険しいものでした。

彼は事件に巻き込まれて晋を逃亡しなくてはならなくなり、

19年もの歳月を各国の間を流浪することになります。

その後彼は秦の国の援助によって晋へ君主として帰ることができ、

春秋の五覇として歴史に名を残すことになるのですが、

文公が春秋の五覇になれたのはある戦いに勝利したことがきっかけでした。

今回は彼が春秋の五覇になるきっかけとなった戦い城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)に

ついてご紹介したいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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宋・楚どちらを取ればいいのか

 

諸国流浪の旅から帰還した重耳は文公として晋の君主に君臨します。

彼が君主の座に就いたとき晋は宋(そう)と同盟しておりました。

この宋の国は南の超大国である(そ)と仲が悪く度々争っており、

文公が晋の君主の座についた時にはその争いは収まっておりました。

だが両国の争いが再び再燃することになってしまい、楚は大軍を率いて宋の首都を包囲します。

宋の国は楚に比べて国土・兵力・国力すべての点で楚よりも小さい国であったため、

宋の君主は晋へ救援軍を派遣してくれるようにお願いします。

文公は宋の君主のお願いを聞きたいのはやまやまでしたが、

楚の君主には重耳が諸国を流浪していた時、楚へ立ち寄った事がありました。

この時に楚の君主は流浪の公子であったにも関わらず重耳を厚遇してくれた恩義があります。

どうすればいいのか迷っていた重耳に流浪してた時に付き従っていた家臣である

先軫(せんしん)が「我が国の曹(そう)と衛の地を楚へあげてしまえばいいのではないのでしょうか。

そうすれば楚軍は両国を防衛するために宋を包囲している軍勢は

いなくなるのではないのでしょうか。」と重耳に進言してきます。

重耳はこの進言を聞くとすぐに実行に移し、

楚へ曹と衛の土地を与えることにします。

すると楚の君主である成(せいおう)は宋から曹と衛の土地を守るため、

宋の首都包囲をやめて両国防衛へ軍勢を向かわせることにします。

 

子玉の怒り

 

楚に猛将として名高い子玉(しぎょく)と言われる武将がおりました。

彼はこの遠征軍にも参加しており、宋の首都包囲が解除されたのは晋の文公が宋に

介入したことだと知って激怒。

彼は成王の元へ行き「私に兵をさずけてください。

楚から受けた恩義をないがしろにした文公を打ち破ってきます。」と進言します。

しかし楚の成王は「あの人は辛い亡命生活を19年も続けてきて、現在晋公として活躍しておる。

なぜ彼が晋公になれたか。それは彼に天命があったからだ。

天命を持った人物と戦えば必ず我らが敗北するであろう。」と

言って決戦を主張する子玉をたしなめます。

だが子玉は王の言葉を受けても引き下がらず食い下がってくるので、

成王は「勝手にしろ」と言って彼に少しの兵を分け与えて、本体は撤退していきます。

 

関連記事:子玉(しぎょく)って誰?三国志にも名前が出る楚の猛将・成得臣

 

楚を翻弄する

 

文公は楚の子玉から使者が来て「晋が捕虜としている衛の君主の身柄をこちらに引渡し、

曹の領土を以前に戻していただきたい。そうすればこちらも宋から手を引きましょう」と提案。

文公はこの使者を返してから家臣から意見を聞きます。

文公の重臣である狐偃(こえん)は「楚の要求は礼に反しております。

楚はこちらに二つも要求しており、楚が叶えるのはたった一つだけです。

こんなバカバカしい交渉はすぐに打ち切るべきです。」と提案。

しかし先軫は狐偃の進言に反対し「狐偃殿が仰った進言は三国を滅亡することに

なるかもしれません。もし滅亡してしまったら我が国が礼に反したとして

非難を浴びる事になるでしょう。

この非難を回避するためにまず曹と衛の両国を元に戻して、我が国の味方とします。

次に楚の使者を捕縛して楚を挑発します。

そして楚を挑発すれば必ず攻撃を仕掛けてくると思われるので、

我が軍は楚軍と対戦してコテンパンにしてやるのはどうでしょうか。」と進言します。

文公はこの進言を採用して先軫が行った通りのことをやります。

楚の子玉はブチギレて晋軍へ攻撃をおこうことを決意し、城濮へ向けて出陣します。

 

楚へ恩義を返す

 

晋の文公は楚の子玉が攻撃を開始してくると、軍勢を退却させていきます。

このことに疑問を持ったある将軍が文公へ「なぜ撤退するのでしょうか。」と質問します。

すると彼は「昔、楚の国で厚遇されたとき成王へ戦になったら36キロほど退却してあげると

約束したんだ。だからここで恩義を返さなければならないだろう」と説明。

この説明を聞いた武将は大いに満足します。

 

城濮の戦い

 

子玉は晋軍が後退していくので追撃していきます。

そして城濮の地で待ち受けていた・宋・秦・晋の四カ国連合軍とぶつかる事になります。

勇猛果敢で鳴り響いた楚軍も四カ国連合軍の兵力には勝てず撤退を行っていくことになります。

この戦いに敗北した子玉は悔しさを滲ませながら楚へ退却していきます。

こうして城濮の戦いに勝利した四カ国連合軍。

そしてこの軍勢の総大将であった文公は周王朝の為に王宮の建造を行い、

自らの国の国力を諸侯へ見せつけてから帰国することになります。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

文公は国に帰ると各国から同盟してくれと要請がやってきます。

彼は諸侯との同盟を受けた後、周王朝へ城濮の戦いで捕虜にした楚兵や武器等を進呈。

周王朝の王はこの戦利品の多さを見て大いに驚くと共に

晋の文公を覇者にするとの辞令を出します。

その後周王は諸侯を集めて彼を覇者として認めさせる会議を開き、

満場一致で彼を覇者として認める事になるのです。

こうして春秋の五覇のひとりである晋の文公が誕生することになるのです。

 

参考文献 史記 司馬遷 市川宏・杉本達夫訳

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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