武田信玄が三方ヶ原で徳川・織田連合軍を打ち破って西へ軍勢を進めていきます。
そして将軍・足利義昭(あしかがよしあき)も武田軍に連動して挙兵。
彼は信長軍に抵抗するための砦を構築して織田軍の襲来に備えます。
さらに織田信長へ引導を渡すために朝倉軍もいつ出陣してもいいように備えており、
近江の浅井家も朝倉軍に連動して軍勢の出陣に備えており、
石山本願寺も織田軍の領土内で一向一揆衆に反乱を起こすように支持しておりました。
こうして状況の中、
信長は武田軍の攻撃に備えるために岐阜城に軍勢を集めておりましたが、
彼にビックな幸運が訪れることになります。
さて彼に訪れたビッグな幸運とはなんなのでしょうか。
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この記事の目次
野田城へ攻撃をかけるが・・・・
武田信玄は三方ヶ原で徳川・織田連合軍を打ち破ると西へ向かって進軍を開始。
彼は三河(みかわ)の豪族である菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が守っている
野田城へ攻撃を開始します。
しかし信玄率いる武田軍はこの野田城攻略に1ヶ月以上もの時間を費やすことになります。
菅沼定盈が守っていた野田城に強力な援軍が現れたわけでもなく、
野田城が要害堅固で大きな城であったわけでもありません。
むしろ小さい城でいつもの武田軍であれば数日もあれば陥落させることができる城でした。
にも関わらず武田軍はこの城に1ヶ月以上も時間をかけたのでしょうか。
その理由は信玄の病が良くなかったからです。
信玄は長年患わっていた結核が原因でした。
西上作戦を開始した当初から調子があまり良くなかった信玄ですが、
三方ヶ原の戦いの時から調子が崩れてしまい吐血するようになってしまいます。
野田城を陥落させてからは吐血がひどくなってしまい、
信玄の病状がよくなるまで武田軍は西へ向かって進軍することをやめてしまいます。
信長にビッグな幸運が訪れる
織田信長は今まで西へ向かって驀進していた武田軍が野田城陥落後に、
動かなくなったことに対して不信感を抱きます。
彼は信玄が野田城から動かなくなったことを突き止めるべく、
諜報部隊を駆使して調査を行うように命令。
そして信長は諜報部隊を駆使して信玄や武田軍の情報を入手しようと試みますが、
中々手に入れることができませんでした。
そうこうしている内に武田軍が全軍を本拠地・甲斐(かい)へ
撤退を始めていることを知ります。
武田軍が撤退してことによって織田軍は救われることになるのですが、
なぜ甲斐へ撤退することにしたのかを知るべく再び諜報部隊へ調査するように命令を発します。
諜報部隊に命令を発してから数日後、武田軍が撤退した理由を突き止めます。
武田軍が全軍撤退した理由は、信玄が亡くなっていたからです。
信長は信玄死亡の確報が諜報部隊から届くと小躍りして喜んだそうです。
こうしてビッグな幸運を手に入れることになった信長は急いで諸将を出陣させます。
将軍・義昭との和睦交渉
信長は柴田勝家(しばたかついえ)、明智光秀(あけちみつひで)、
丹羽長秀(にわながひで)らに命じて、幕府軍が駐屯している砦を攻撃させます。
幕府軍vs織田軍の戦いは織田軍の大勝利で決着がつきます。
信長は幕府軍が駐屯していた砦を破壊した後、将軍へ和睦交渉を行います。
この和睦交渉は将軍・義昭の要求を信長が全て飲むことで決着がつきそうでしたが、
ある人物のせいでこの和睦交渉はぶち壊されることになります。
その人物の名は松永久秀(まつながひさひで)です。
松永久秀の説得
松永久秀(まつなひさひで)。
彼は織田軍に味方して金ヶ崎の退き口では、
信長のために朽木家と交渉して信長を助ける役目を果たしておりました。
しかし彼は今回将軍・義昭に味方して信長に対して反旗を翻すことに決めます。
彼は丹波(たんば)・畿内(きない)には知り合いも多く、
彼が一声かければすぐにある程度の豪族や大名が味方するほど名声を持っておりました。
また三好家とは以前主従関係を結んでいたことから関係も深く、
将軍に味方してくれる可能性は十分にありました。
さらに石山本願寺も援軍を出して
これらの諸条件を久秀は将軍義昭へ説明し「信長と和睦することなく戦い続けて、
織田家を滅亡させてしまえばいいのです。」と提案。
義昭は久秀の説得を受けて信長との和睦交渉を打ち切って戦い続ける意思を固めます。
義昭が信長と戦い続ける意思を表明すると信長に味方する大名は二三の大名を除い、
畿内は反信長勢力が結集することになります。
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焼き討ち作戦をする前に・・・・
信長は幕府軍が篭城していた砦を陥落させたことを報告されると岐阜城を出陣して、
京都・知恩院(ちおんいん)へ入ります。
彼は京都において将軍がどの程度の人気を有しているかを知るため、
吉田神社の神主・吉田兼和(よしだかねかず)を呼んで尋ねます。
信長は彼へ「俺さぁ。京都を焼こうと思っているんだけどさぁ。
将軍が挙兵したことを京都の人々はどのように思っているのか知ってる。」と尋ねます。
兼和は信長が京都を焼こうとしていることに驚きますが、
表情に出すことなく彼の質問に答えます。
兼和は信長へ「将軍の評判は京都ではあんまりよく言っている者を
聞いたことがありません」と述べます。
信長は兼和の言葉を聞いて頷くと彼に褒美として金貨を与えた後、
京都を焼き討ちするべく準備を行います。
京都焼き討ち作戦実行
信長は足利義昭が駐屯している二条御所(にじょうごしょ)から見える上京の地へ
火をつけて回ります。
この時の信長軍の統制は規制が緩く、
略奪をしていても注意するだけで咎めることをしませんでした。
信長軍は京都へ初めて来た頃軍勢の規制はかなり厳しく取り締まっておりました。
織田軍の兵士が京都の住人から傘を借りただけで、
将校から斬られるほどの厳しさであったのが、
今回は規制が緩くて略奪しても注意だけで済んだのでしょうか。
京都の治安を守るのは将軍の仕事であることを市民に知らしめるため、
今回の上京焼き討ち作戦時の織田軍は規制が緩かったのではないのかと考えられます。
織田軍に将軍が楯突くことをしなければこのようにならなかったと市民に示すことで、
将軍の権威と人気を落とす狙いがあったのではないのかと考えられます。
さらに信長は上京の地を焼け野原にした後、
下京の地も焼け野原にして将軍・義昭へプレッシャーをかけていくことにします。
将軍は戦の経験に灯っかったこともありこの焼き討ち作戦を二条御所から見たことで、
信長のプレッシャーにビビっていたと思われます。
この焼き討ちから数日後に義昭は信長との和睦に応じているからです。
朝廷の仲介によって和睦成立
信長は焼き討ち作戦を行ったことで義昭へプレッシャーをかけます。
さらに彼は将軍が駐屯している二条御所を大軍で囲んでさらに圧力をかけていきます。
義昭は信長の要請で動いた朝廷の仲介を得て信長との和睦に応じることになります。
こうして義昭は信長との和睦に応じて兵を収めることになるのです。
戦国史ライター黒田レンのひとりごと
信長は信玄が亡くなったことで最大の危機は去ることになり、
まさにビッグな幸運と言っていいでしょう。
さらに義昭の反乱も朝廷を動かしたことで和睦することに成功。
こうして畿内は平和になったかと思いきや義昭は、
信長に再び反旗を翻そうと計画を立てておりました。
畿内は反信長勢力がまだまだいて油断することのできない状況が続くことになります。
参考文献 中公新書 信長と将軍義昭 谷口克広著など
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