信長は本願寺を和睦に応じさせることに成功し長年の宿敵との戦いを終結させ、こうして畿内で反信長の旗を掲げていた勢力は駆逐されることになります。
畿内で反信長の勢力が駆逐された時、中国方面軍司令官として播磨(はりま)を攻略し、因幡(いなば)の鳥取(とっとり)城を攻略していた羽柴秀吉(はしばひでよし)は、毛利軍の本拠地を目指して出陣します。彼は毛利家から織田家へ寝返ってきた宇喜多(うきた)家が拠点としている備前(びぜん)を経由して毛利家の備中(びっちゅう)を攻略するべく侵攻を開始。
毛利家は羽柴軍が備中へ侵攻を開始したことを知ると毛利両川の一人である小早川隆景(こばやかわたかかげ)が中心となって、羽柴軍の迎撃を行うべく作戦を指導します。こうして備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を中心として、毛利軍と羽柴軍の決戦が開始されることになるのです。そして秀吉にとってこの戦いの最中に大きな運命の変転が起きることになるのです。
淡路攻略を開始
秀吉は播磨・因幡を攻略することに成功すると四国攻略戦の拠点として、
淡路島(あわじしま)を攻略することにします。
彼はこの淡路攻略戦に仙石権兵衛(せんごくごんべえ)と
黒田官兵衛(くろだかんべえ)を起用。
二人は秀吉から淡路島攻略を命じられるとすぐに渡航して淡路へ向かいます。
権兵衛と官兵衛は協力して淡路の水軍衆や国人衆を味方につけて、
淡路島攻略を行っていきます。
備中へ向けて進軍開始
秀吉は淡路攻略へ権兵衛と官兵衛が向かっている間、
重臣達と協議して毛利家攻略戦の次なる目標を決めます。
彼が毛利攻略戦を行う次なる目標として決めたのは備中(びっちゅう)でした。
そのため羽柴軍は備中攻略を行うための準備を開始。
秀吉は数ヶ月の間準備を行った後、淡路へ向かっていた官兵衛を呼び戻して、
播磨の本拠地である姫路(ひめじ)城を出陣することにします。
秀吉の軍勢は備中へ向かう途中宇喜多(うきた)家の城へ入城。
彼は宇喜多家の当主であった直家(なおいえ)が亡くないたため、
安土城にいる織田信長の元へ行き
「宇喜多家の相続を直家の嫡男である八郎に継がせたいと思いますが、
よろしいでしょうか」と許可を仰ぎます。
信長は宇喜多家を八郎が継ぐことを許し、
宇喜多家に関する相続の事柄を秀吉に任せることにします。
秀吉はこうして宇喜多家の相続問題を解決することに成功したため、
宇喜多家では当主直家が亡くなった後も戦力ダウンすることなく秀吉軍に付き従って、
行く事になるのです。
こうして秀吉は宇喜多家の相続問題を解決すると備中高松城へ攻撃を仕掛ける前に
調略を開始することにします。
彼が狙いを定めたのは備中高松城主である清水宗治(しみずむねはる)でした。
清水宗治の調略に失敗
秀吉は官兵衛らに命じて備中高松城の城主となっている清水宗治へ調略を行います。
官兵衛らは幾度も宗治へ毛利の不利と織田家がいかに有利であるかを説きますが、
宗治は秀吉(織田家)へ味方になることを拒否。
秀吉は官兵衛らが宗治の調略を失敗したことを知ると
秀吉・宇喜多連合軍を備中高松城へ出陣させることにします。
境目七城攻略戦開始
秀吉は清水宗治調略が失敗に終わると毛利家が、
羽柴軍を迎撃する為に備中高松城を中心として構築した防衛ライン
「境目七城(さかいめななじょう)」を攻略するべく攻撃を開始。
秀吉軍は宮路山(みやじま)城、冠山(かんむり)城などを含めた七城を次々と
陥落させていき備中高松城の防衛ラインを破壊していきます。
こうして境目七城は秀吉軍の攻撃によって陥落することになり、
毛利家が築いた防衛ラインは破壊されることになります。
そして秀吉軍は備中高松城へ攻撃を行うことにします。
鉄壁の城高松城
備中高松城は周辺を沼地になっており、
この城を攻撃する軍はこの沼地に足を取られてしまい進軍することが、
困難な状態になってしまいます。
そして沼地に攻撃軍の兵士達が足を取られてしまっている間、
篭城軍は城から弓矢や鉄砲を放って敵軍を討ち取ってしまうのです。
秀吉は高松城へ攻撃を仕掛けることしますが、高松城の地形が上記のようであり、
攻撃を行った兵士達が次々とやられてしまう状況をみて力攻めは無理であると判断し、
撤退を指示します。
秀吉は高松城を陥落するためにどうすればいいのか軍師である官兵衛に相談。
秀吉と官兵衛は数日相談を重ねて行った結果、ある作戦を思いつきます。
地形調査
秀吉は備中高松城周辺の地形を調べさせることにします。
その結果、あることが判明します。
それは備中高松城付近に流れる足守川(あしもりがわ)よりも微妙に高松城のほうが、
低いことがわかります。
秀吉はこの報告を聞くと官兵衛と相談して出した水攻めを開始することを決断します。
難しい水攻め
話はここで少し飛びますが、
秀吉は後年小田原(おだわら)の北条氏政を討伐すために大軍を関東へ出陣させます。
この備中高松城攻略戦に参加していた石田三成(いしだみつなり)も
軍勢を率いる大将として小田原北条家討伐戦に参加しておりました。
三成は関東の忍城(おしじょう)を攻略することを命じられ、
この城を攻略するために攻撃を開始します。
しかし三成率いる軍勢は忍城に篭城していた成田軍(なりた)に敗退してしまいます。
そこで三成は忍城を水攻めにしてしまおうと考えて、
備中高松城で秀吉が行ったように堤防を構築させて川を塞き止めて、
忍城に流し込みます。
忍城にも水は勢いよく流れ込んでいくことになるのですが、
石田三成の軍勢の方にまで水fが流れ込んでしまいこの作戦は失敗してしまいます。
どうして失敗することになったのか。
それは工事を行った人達が堤建築の際に手抜き工事を行ったとか、
成田側から包を破壊されたことがきっかけで失敗したなど多くの理由が存在しております。
なんにしてもこの忍城の水攻めは失敗してしまうことになり、
官僚として優秀な石田三成ですら成功することができなかったほど難しい水攻めなのです。
しかし秀吉の備中高松城へおこなった水攻めは成功することになりますが、
彼はどのようにして水攻めを行ったのでしょうか。
戦国史ライター黒田レンの独り言
備中高松城攻めなど秀吉の功績を示した太閤記(たいこうき)によると
足守川周辺に12キロほど(通説では3キロほどの堤防であることが流布されている)の
長大な堤防を建築したと記されております。
しかしレンの歴史の教科書に近い状態となっている宮下氏が書いたセンゴクによると
実は秀吉はそんなに長い堤防を築いていないことを指摘しております。
宮下氏は秀吉が築堤に要した時間が19日間程度あったことや高松城付近が盆地状で、
天然堤となっている為、
高松城を水没させるために必要な堤防は300メートルほどでよかったことなどを指摘。
そして秀吉が堤防工事を行った場所は蛙ヶ鼻(かえるがばな)と
呼ばれる土地であることを示します。
彼がこの土地に秀吉が堤防を建築した証左として、
吉川家文書(きっかわけもんじょ)に書かれている一文を挙げております。
その内容は「下口(蛙ヶ鼻)付き塞ぎ候て攻め申し候」と書かれており、
宮下氏が掲げた秀吉の堤防工事が短いことを示しており、
現在でも備中高松城があった付近は雨が長い期間降ると水没寸前にまでなってしまう為、
排水ポンプで水を排出しているそうです。
上記の理由をもって秀吉が行った築堤工事は蛙ヶ鼻周辺300メートル程に堤防を作って、
残りは自然堤防を利用して水攻めを行ったのではないかと言う仮説を提言しております。
レンはこれから備中高松城の水攻めを描いていくことにしますが、
宮下氏の提言を用いていきたいと思っているので、
ご了承の程をお願いします。
参考 中公新書 信長軍の司令官 谷口克広著
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