島津斉彬の死因は?島津斉興に暗殺されたのか?

2018年2月6日


 

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今回は幕末に活躍した薩摩藩主の島津斉彬の死因について取り上げます。

島津斉彬と言えば、今年の大河ドラマ『西郷どん』で、

農民・下級武士から支持されていた薩摩藩主という印象を受けると思います。

一方で、幕末の歴史について興味のある人にとって、

島津斉彬と言えば幕末の開国以降の改革の最中に

急死した人物という印象を受ける人がいると思います。

死因についてはまだ解明されていないので、

病死であるという説があれば暗殺されたという説もあります。

病死よりも暗殺されたという説が有力ではないかと言われていますが、まだ分かりません。

ここでは、島津斉彬の死因について、最初に病死説を取り上げます。

次に、暗殺説が出た経緯について取り上げます。

それから、暗殺の真犯人、島津斉興が久光を跡目したかった動機、

島津斉彬の死後の薩摩藩について紹介します。

 

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島津斉彬の死因は?

 

島津斉彬は鹿児島城下での練兵の様子を見学していたときに病死したという記録が残っています。

50歳で病没しました。

死因として、伝染病の1つであるコレラであると言われています。

 

島津斉彬は暗殺された?

 

島津斉彬の死因について、病死よりも暗殺説のほうが有力であると言われています。

なぜ暗殺説が有力になっているのか気になると思います。

ここでは、暗殺説の根拠を取り上げます。

 

1つ目の根拠は、斉彬の嫡子が幼くして相次いで死亡したことです。

この嫡子の死亡について、薩摩藩内でお由羅の仕業ではないかという噂が広がります。

この噂に対して、斉興は斉彬派の家臣を相次いで切腹・遠島・謹慎処分にして、

斉彬派を排除しました。

この一連の排除のことを「お由羅騒動」と言います。

 

 

2つ目の根拠は、島津斉興の斉彬への報復です。

斉興は隠居に追い込んだ斉彬への報復として暗殺したのではないかと考えられます。

島津斉興は祖父の島津重豪の代に藩の財政が悪化したので、

調所広郷を登用して財政の立て直しをしました。

財政再建に成功しましたが、庶民や下級武士の生活は困窮していました。

農民や下級武士を中心に薩摩藩内で斉彬を推す動きがあったことから、

斉彬は老中や将軍を通して斉興を隠居させることにしました。

 

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真犯人は父・斉興?それとも久光?

 

ここでは島津斉彬の暗殺の真犯人として、父・斉興を挙げます。

斉彬は老中や将軍を通して斉興を隠居させることに成功しましたが、

隠居に対する報復であると考えられます。

最初に、父・斉興の祖父・島津重豪の政治について取り上げます。

重豪は教育に力を入れた人で、藩校造士館を設立しました。

教育以外の負の一面では、琉球王国との貿易で多くの西洋の骨董品を購入したため、

薩摩藩の財政は悪化しました。

次に、父・斉興の財政再建について取り上げます。

財政再建のため調所広郷を登用します。

調所は黒砂糖の専売制と琉球との密貿易で財政の立て直しに成功します。

一方で、下級武士や農民に対して重い年貢を課していたため、

生活が苦しく土地を手放す者まで出ました。

この農民らの苦しい現状を打破するために、

斉興の子・斉彬は将軍や老中に根回しをして斉興を隠居させることに成功しました。

この隠居に対する報復ではないかというのが暗殺の真犯人が斉興であるという根拠です。

 

斉興は久光を跡目にしたかったから暗殺した?

 

島津斉興は斉彬を遠ざけていたと言われています。

なぜ斉彬を遠ざけていたのか、久光を跡目にしたかったのか。

ここでは斉興が久光を跡目にしたかった動機について考えます。

斉彬が斉興の祖父・島津重豪と重なる部分があったからではないかと考えられます。

重豪の政治については藩校・造士館の建設や西洋への関心が高いという特徴が挙げられます。

西洋に関心があるため、骨董品を大量に購入し、財政悪化の原因となりました。

斉彬の特徴について取り上げます。

斉彬は西洋への関心が高く、藩主になってから藩校・集成館の建設や西洋から反射炉を導入しました。

このように、斉彬と祖父重豪について、

学校を建設しているという点や西洋に関心があるという点で共通する部分があり、

斉興は薩摩藩の財政が再び悪化することを恐れていたのではないかと考えられます。

終わりに、斉興が財政悪化を恐れて久光を跡目にしたかったという動機が成り立ち、

暗殺したという説が有力な理由として挙げられます。

   

島津斉彬を失った薩摩藩はどうなった?

 

島津斉彬は開国後の混乱した幕府を立て直すために、

幕政改革になくてはならない人でした。

島津斉彬が死亡すると、

西郷隆盛ら斉彬派が流罪などの処分を受けましたが、復帰して政治に関わっています。

斉彬の後、薩摩藩主は久光の子・忠義が継いでいました。

久光は国父として、勅使大原重徳を引き連れて幕府に改革を迫ります。

この幕政改革を文久の改革と言い、

安政の大獄で謹慎の処分を受けていた一橋(徳川)慶喜や

松平春嶽が将軍14代徳川家茂を補佐するために復帰します。

江戸幕府で改革を迫ってから薩摩に帰ろうとしたとき、生麦村で事件が起こります。

 

 

大名行列の前をイギリス人が横切ったため斬りつけました。

それに対して、イギリスは薩摩藩に報復をします。

このことを薩英戦争と言います。

 

 

薩英戦争で鹿児島は壊滅的被害を受け、薩摩藩はイギリスと講和し、

最新の技術を導入することを決めました。その後、倒幕へと動きます。

 

最後に、幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

島津斉彬が急死すると、

西郷隆盛や大久保利通のような優秀な下級武士が登用されなくなるのではないか、

改革が後退するのではないかと思われました。

しかし、島津久光は国父として幕府に改革を迫ったり、

薩英戦争後にイギリスの技術を取り入れたりしました。

斉興が斉彬を跡目にすることを避けようとしていたにもかかわらず、

結果的に斉彬の遺志を引き継いだことになります。

 

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