島津斉彬と沖縄(琉球)との対外貿易計画はどんな関係性だったの?

2018年2月13日


 

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薩摩藩は関ヶ原の戦いに敗れました。

しかし、長州藩(毛利家)のように領地を削られることはありませんでした。

そして、薩摩藩は、江戸幕府の管理貿易といっていい

「鎖国」の中で独自に沖縄(琉球)との対外貿易関係を構築していきます。

薩摩藩と沖縄(琉球)の関係はどのようなものだったのでしょうか。

そして、幕末時代に薩摩藩の開明的な藩主となった島津斉彬(しまづなりあきら)は、

沖縄(琉球)に対しどのような対外政策をとっていったのでしょうか。

今回は薩摩藩と沖縄(琉球)の関係、

そして藩主・島津斉彬がどう関わっていったのかを考察していきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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島津斉彬と琉球王国について

 

今までの通説では薩摩藩は、関ヶ原の戦いに敗れるとの矛先を沖縄(琉球)に向けます。

武力侵攻を行い、沖縄(琉球)に支配下において、

収奪的貿易で大きな利益を上げていたという通説です。

北海道の松前藩とアイヌの交易と同じような形で評価されていました。

しかし、最近の研究ではどうも事情が違うのではないかという話も出ています。

薩摩藩と琉球の貿易は、薩摩藩のとっても効率が悪く、

商人に大きな借金をして資金を調達しながら行われたものだったのです。

島津斉彬が藩主となるまでは、薩摩藩として、

沖縄(琉球)との貿易はあまり拡大したくなかったのです。

薩摩藩にとって、苦労ばかり多く、儲けが少ないのですから。

沖縄(琉球)は薩摩藩に対し完全に支配されていたわけではなく、

いろいろな場面で、粘り強く交渉する厄介な相手だったのです。

しかし、薩摩藩主となった島津斉彬は、沖縄貿易を拡大する政策を採用したのでした。

 

島津斉彬の対外貿易計画について

 

島津斉彬は、薩摩藩の近代化を推し進めます。

「集成館事業」という巨大工場群を建設する事業を進めます。

これは、明治維新後に大日本帝国が進めた「富国強兵」、「殖産興業」を先取りしたものです。

そのとき、明治政府の中心として政策を進めたのは島津斉彬の直弟子ともいえる大久保利通でした。

島津斉彬は、沖縄(琉球)を利用した対外貿易の拡大を考えていたのです。

薩摩藩の近代化によって生み出された産品や、

既存の様々な輸出品などを沖縄(琉球)交易で輸出します。

そして、沖縄がそれらを欧米各国に輸出する計画でした。

島津斉彬はそのような指示を出し、沖縄(琉球)貿易に関わる人材も一新しています。

薩摩藩の近代化、産業育成のために、

薩摩藩にとってお荷物だった沖縄(琉球)貿易は島津斉彬により拡大へと舵をきったのです。

島津藩の対外貿易拡大のためでした。

 

琉球王国を介したフランスとの交易はどうなったの?

 

丁度、島津斉彬が薩摩藩主の時代、

フランスが沖縄(琉球)との貿易拡大の可能性を模索していました。

対外事情に対する情報収を怠らない、島津斉彬はその動きを掴みます。

そして、薩摩藩はフランス製の大砲、軍艦などを、沖縄(琉球)交易を介し発注しています。

また、新兵器があっても、それを使える人材がいなければどうにもなりません。

幕末期の大砲は現代でいえばハイテクミサイル、西洋型軍船はイージス艦のようなものです。

なんの経験のない人材が使えるものではありません。

事実、薩摩藩ではその人材の育成に苦慮します。

その中で、フランスへ留学生を送り込むという計画もありました。

薩摩藩主・島津斉彬は琉球王国との交易を利用し、薩摩藩の近代化を成し遂げようともしていたのです。

しかし、琉球王国を介したフランスとの交易は島津斉彬の死とともに頓挫してしまいました。

 

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島津斉彬死の琉球王国への影響

 

薩摩藩の改革、近代化を推進していた島津斉彬は急死しました。

それはあまりに唐突な死であるように見え、後に暗殺説もでたほどです。

薩摩藩の近代化の方法として採用されていた、沖縄(琉球)との交易を利用し、

まずフランスとの交流を拡大しようとした計画は、島津斉彬の死で大きな方向転換を強いられました。

フランスには発注された軍艦はキャンセルとなります。

そして、沖縄(琉球)国内の政治も混乱期に突入したのです。

以前から琉球王国内では、反薩摩派と親薩摩派の対立がありました。

そして、薩摩藩主としての島津斉彬の登場は、親薩摩派に勢いをつけていました。

しかし、島津斉彬の死は、琉球王国内の反薩摩派の逆襲を招くのです。

積極的に琉球王国内で、薩摩藩の対外政策に協力していた役人たちは次々処罰されました。

このような琉球王国内の動きをみても、薩摩藩が一方的に琉球を支配し、

収奪していたという「通説」は見直す必要があるのではないでしょうか。

 

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幕末ライター夜食の独り言

 

そもそも、薩摩藩と沖縄県(琉球)の関係については歴史的な経緯など、

具体的なイメージを持っている人は少ないのではないかと思います。

あっても、薩摩に収奪された「弱者」としての琉球王国の存在が強調されます。

しかし、史実では確かに「収奪」の側面はあったにせよ、

琉球王国は、唯々諾々と薩摩藩に従っていたというわけではありません。

その後、明治政府が琉球王国との交渉にてこずったことを見ても、

完全な「弱者」で「犠牲者」であったわけでは無いのです。

もし、島津斉彬の対外政策が継承され、沖縄が中継貿易の起点として発展していた場合、

沖縄の置かれた立場は「軍事面」の重要性が強調されすぎる

今とは変わったものになっていたかもしれません。

 

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